(ぶつぶつ / 善阿上人修行の跡)
治承4年12月28日(1181年1月15日)、南都(奈良)が紅蓮の炎に包まれた。父平清盛の命を受けた重衡が平氏政権に反抗的な興福寺衆徒を掃討すべく南都へ攻め入り火を放った。これにより、現在の奈良市主要部の大半にあたる地域が焼かれ、興福寺、東大寺の堂塔伽藍は一宇残さず焼失、多数の僧侶達が焼死した。 『平家物語』によると、重衡が南都に攻め入った夜、陣中にて灯りを求めたところ、播磨国揖保郡福井荘(注1.)の荘官、下司(げし)二郎大夫友方(『源平盛衰記』では下司次郎俊方)が盾を割り、それを松明として周囲の民家に火を放った。それが折からの強風に煽られて大火災を招いたと言われている。 この火災により北は般若寺から南は新薬師寺付近、東は東大寺、興福寺の東端から西は佐保辺りに及び、現在の奈良市主要部の大半にあたる地域が火の海となった。特に被害の大きかった興福寺、東大寺のうち、東大寺では大仏殿(金堂)をはじめ主要な建物の殆どを失った。東大寺の本尊である大仏も甚だしく焼損し、頭部と手は焼け落ちてそれぞれ仏身の前後に転がっていたという。 興福寺でも主要な建物の大半にあたる38の施設が焼失したと言われている。その他、藤原北家当主の邸宅であり、大和国における藤原氏の出先機関でもあった佐保殿も焼失した。 この兵火の犠牲者について『平家物語』では大仏殿を始めとする東大寺、興福寺の建物に避難した多数の僧侶や地元民などが火炎に巻き込まれ、合計3千5百余人が焼死したと伝えている。 『平家物語』では、下司友方(俊方)が民家に放った火が強風に煽られて延焼したとしているが、『延慶本平家物語』では「寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎、坊中に火をかけて、是を焼く」とあり、寺院などはその規模や立地条件から、有事には城として使用されることもあり、計画された戦略的な放火であった事を示唆している。ただ、東大寺や興福寺までも焼き払うような大規模な延焼は重衡らの予想を上回るものであったと思われる。
重衡の南都焼討から程なくして、火を放った下司二郎が熱病を患い死んだ、そして後を追うように(下司)一族の者が皆悉く熱病で死んでいった。
南都焼討の1年後の治承5年(1181)閏2月4日には重衡の父平清盛も謎の高熱を発して死んだ。『平家物語』によると、病の床に伏した清盛は高熱にうなされ「あた、あた」(暑い、暑い)とうわ言のように繰り返すばかり。石で作られた浴槽に比叡山の千手井の水を満たし清盛の体を沈めたが、あまりの熱さに水が湯になったと記されている。比叡山の千手井の水は水量が豊富で非常に冷たいことで有名であるが、それとてまったく効き目が無かったという。
一族悉く滅びたと思われた下司一族だったが、下司二郎の妹ただ一人が生き残っていた。生き残った妹は一族の死は仏罰によるものと考え、焼討の犠牲者を供養するため我が子(下司二郎の甥)を俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に託した。
善阿は来迎寺の建立のほかにも、自ら写経した浄土三部経三千部を垂井庄(播磨国賀茂郡垂井庄)(注7.)内の3ヶ所の経塚に埋納したといわれ、付近にある古墳のうちいくつかがこの経塚だという言い伝えも残っている。 以下、由緒碑碑文より。
ぶつぶつ(善阿上人修行の跡) : 兵庫県小野市市場町字塩の供御893 注1. 現在の姫路市南部の勝原、大津、網干辺り一帯。 注2. 荘園で荘務を行う下級荘官。在京の役人である上司(じょうし、在京荘官)に対しての呼称。年貢、公事(くじ)、夫役(ぶやく)などの徴収、治安維持などに当たった。荘園領主より給田(きゅうでん、荘園領主などが荘官などに給与する田地)、下司名(げしみょう、下司に与えられた名)を得た。 注3. 『土佐国蠧簡集』(とさのくにとかんしゅう)の慶長2年(1597)3月24日の秦氏政事記に中五郡代官庄屋として「一、久枝 庄屋、刀禰 下司九郎左衛門」とある。 注4. 江戸時代の豊後国国東郡、速見郡内を領した藩。藩庁は杵築城(大分県杵築市) 注5. 嘉永5年(1852)調の杵築藩士一覧に「中小姓格 下司鉄之丞 八石二人扶持」の名前が見える。 注6. 出家して沙弥十戒を受け、比丘(びく)となるまでの修行中の僧「沙弥」、比丘尼(びくに)となるまでの修行中の尼僧「沙弥尼」が守るべき十戒。 注7. 現在の小野市垂井町、神明町、市場町付近一帯。
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