
姫路総社境内の西の端、総社公園の中に木々に埋もれるようにして「血乃池趾」の碑がひっそりと建っている。
この碑は昭和51年(1976)、姫路総社の宮司荒木昌彦氏の建立によるもので、裏には血乃池の由来が記されている。
播磨国総社 射楯兵主(いたてひょうず)神社の西門南側に、鬱蒼とした木々に囲まれた神池があった。
『惣社集日記』によると、正歴元年(990)、播磨守の平井保昌(藤原保昌)が丹後国の悪賊退治の祈願に射楯兵主神社を訪れた時、一夜にしてこの神池が出来たといわれる。神事を行うにあたり穢れを忌み身を清めるための神池であった。
かつて姫路市街を東北から南西に流れていた青見川(藍染川、御手洗川)の名残と伝えられ、池田輝政の築城の際、青見川城下の中濠内に取り込まれていた。
文化元年(1804)の『播州名所巡覧図絵』にも射楯兵主神社境内図の西方に「血の池」が描かれている。
昔、総社では旧暦の7月13日から15日にかけて、人々が抜刀して踊りを舞う「刀劔おとり神事」と呼ばれるお盆の行事があった。江戸時代には「踊舞神事」や「修羅念仏」、江戸時代の後半には「修羅踊り」や「豊年踊り」、「ほうでん踊り」と呼ばれた。
かつて、お盆には村々に先祖の霊が帰り来る時に、これらと共に災厄をもたらす悪い霊もやって来ると考えられ、各地の村々ではこの悪い霊を鉦(かね)や太鼓を用いて追い払うという行事が行われていた。なかでも、射楯兵主神社のこの神事は抜刀して踊りを舞うというものであり、更には随分と荒いものであったようで、傷を負うものも少なくなかったようである。
ある時、この神事で怪我をした者がこの池の水で傷口を洗ったところ、たちどころに血は止まり傷は癒えたという。以来、この池を「血乃池」と呼ぶようになったという。
戦国時代には、血の着いた刀や討死した兵士の遺体を洗っていたとか、第二次世界大戦の空襲で亡くなった方の遺体を洗っていという話も聞くが、これは血乃池という名前から後世に付会されたものと思われる。
戦前には池の東側に能舞台があり、霜月礼大祭には「神能」が奉納され、とても賑わったという。昭和51年(1976)の姫路市の復興区画整備事業により池は埋められ、平成17年(2005)の全面改修工事で市民の憩いの場、総社公園となって新しく生まれ変った。
池の周囲にあったという石がその大きさを今に伝えるのみである。
血乃池跡:兵庫県姫路市総社本町132 総社公園
| 参考資料 : | 高橋秀吉編. 播州姫路考略記. 姫路郷土資料研究会, 1941 |
| 血乃池由緒碑 碑文(播磨國総社宮司 荒木昌彦 昭和51年3月 建之)(敬称略) |
| 現地解説板(姫路市教育委員会 平成17年9月 設置) |
| the29様よりお寄せいただいたお話 |
追記
H15年11月14日、the29様より血乃池があった当時の貴重なお話をご投稿戴きました。
私が子供の頃、現在の公園になる前です。
総社の近くに親戚がありしょっちゅう池のそばを通りました。
その都度、母親に
「ここはけがをした沢山の人が血を洗い流していたので、今でも池の水は赤いままなのよ」
と脅かされていました。
当時、本当に水の色は赤茶けていたのと怖さで血の色に見えました。
多分?単に泥水で濁っていただけだと思います。
2022.10.13 加筆再編集
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