それは大通りから神戸市民球場(訪問時、2000年閉鎖)へ向かう道の片隅にひっそりと立っている。「史跡 蓮の池址」(昭和8年4月建立)と刻まれたその碑は震災で折れたのだろうか、今は「址」の文字の部分までが地中に埋められ、コンクリートで固められている。 この辺りを蓮池町といい、現在市民球場、県立文化体育館、神戸市立蓮池小学校の建っている所はかつて蓮の池と呼ばれる実測面積17,400坪(約 57,520m2)の広大な池があった。 この池は畿内を行脚していた行基が水不足に悩む村人のために天平年間(729~749)に造ったといわれ、八功徳水(極楽浄土にあるといわれる美しい蓮の花の咲き乱れる池)になぞらえて一株の蓮を池の中に投げ込んだ。以来、毎年この池には美しい蓮の花が咲くようになり、いつしかこの池は「蓮の池」と呼ばれるようになった。古記によればその大きさは四町ニ反歩(約 42,000m2)とある。 この池の北には「蓮の宮」と呼ばれる小祠があり、行基が祀られているとも、お稲荷さんが祀られているとも言われていたが、池の埋め立てに伴い今は高取山頂の高取神社に合祀されている。
往時の蓮の宮の周囲は森で、昼なお暗く近づく人も稀であった。その森の中、蓮の宮の側には大きな杉の木があり、幹には五寸釘を打ち込まれた藁人形が何度と無く見受けられたいう。この蓮の宮ではしばしば「丑の刻参り」が行われていたのである。
伝説はともかくとして、この池が埋め立てられるまでは実際にここで何度と無く五寸釘を打ち込まれた藁人形が発見されている。また、この池の中の一本道はどうやら実在したようである。
余談ではあるが、蓮の池の名は古くより見受けられ、『平家物語』の巻第九「重衡生捕」(しげひらいけどり)の条には、生田の森の合戦に敗れた平重衡が西へ落ちて行く様子を「湊河かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手(右手)にみて、駒の林を弓手(左手)になし、板屋ど(板宿)須磨をもうちすぎて、西へさいてぞ落ちたまふ」とある。同じ頃、平重盛の家臣、蓮池権頭家綱がこの池のほとりで討死したことから、この池を蓮の池と呼ぶようになったという説話もある。 余談ではあるが、市民運動場は終戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までの間、米軍に接収されていたことがある。
池が埋め立てられた後、夜な夜な悲しげな笛の音が聞こえる事があった。それはかつての蓮の池の主だった白い大蛇が無くなった池を偲んで吹く笛の音なのだという。
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