【人斬り殿様】
元和3年(1617)7月14日、本多忠政が姫路城主となり、その女婿の小笠原忠政(後に忠真)が同年7月28日、明石に国替えとなり、明石藩が立藩。徳川秀忠の命により、明石城を築城した。
先代の藩主本多政利が苛政を強いた罪や巡見使に対する不作法により、天和2年(1682)2月、陸奥国大久保藩(岩瀬藩)に1万石に減封の上転封となり、同年3月、松平直明が入城。以来、明治維新を迎えるまで松平氏が10代続いた。
この松平氏の治世、明石城には松平兵部太夫という“人斬り殿様”がおり、「日に三人ずつ斬り捨て御免にした」という伝説が残っている。
松平兵部太夫(兵部大輔)を名乗った藩主は、八代藩主斉宣(なりこと)と九代藩主慶憲(よしのり)が居たが、伝説の人斬り殿様とは八代斉宣のことであったと伝える。
松平斉宣は11代将軍徳川家斉の二十六男。12代将軍、徳川家慶の異母弟にあたる。(余談だが、家斉には26人の男子、27人の女子がいたといい、斉宣は53番目の子であったという。)
天保11年(1840)、明石藩主松平斉韶(なりつぐ)の養嗣子となり家督を相続。将軍の命とはいえ、斉韶の嫡子である直憲(後の九代藩主慶憲)を退けての強引な藩主就任であったため、慶憲の生母、季遠姫(松平直恒の娘)はこれを嘆いて憤死したとも自害したともいう。
斉宣は粗暴で奇行が多かったと伝え、欲望のままに女性を襲い、刀を振り回しては無関係な人を斬り殺していたという。
同時代を生きた肥前国平戸藩の第9代藩主であった松浦静山が記した随筆『甲子夜話』によると、斉宣が参勤交代で尾張藩領(当時の藩主は斉宣の異母兄にあたる尾張徳川家12代当主、徳川斉荘(なりたか))を通っていた時のこと、3歳になる子供(女の子であったという)が行列を横切った。大名行列の供先(ともさき)を切る(=横切る)ことは、場合によってはその場で無礼討ちも有り得ることだった。家臣たちはこの子供を捕らえて宿泊先の本陣へと連れて行った。僅か3歳の子供のしたこと、その日の夜、名主、庄屋、僧侶、神主、村民たちから近隣の宿場の者までが斉宣の本陣へと押し寄せて子供の命乞いをしたが、「幼年にもあれ、予(余)が行列を犯す上は決して宥免罷りならぬ」と、この子供を斬り捨ててしまった。
これに激怒したのは尾張藩である。自藩の領民の保護は藩主の使命であり、御三家筆頭の尾張徳川家の領民を斬り捨てるとは許し難い行いである。更には、行列を横切ったのは幼子(おさなご)である。今後は当家の領土を通ること罷(まか)り成らんと明石藩に通告するという事態に発展した。
この事があって以来、明石藩は尾張領内においては行列を立てず、主君の駕籠を守る馬廻りの武士たちが脇差し1本のみを腰に帯び、半纏、股引きという農民や町人の出で立ちで通行したという。
ただ、この話は前述の『甲子夜話』のみに見える話で、尾張藩、明石藩、街道沿いの地域の記録や公文書等でこの時の事が記録されたものは今のところ見つかっていない。
後日談として、江戸文化、風俗の研究家、三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)の随筆『帝国大学赤門由来』の「明石源内寝覚鉄砲」には、無礼討ちにされた子供の父親が仇討を果たしたことが記されている。
子供の父親は源内という猟師で、無慈悲に横道を働く狂気の大名と、仇討の機会を伺っていた。
果たして、弘化元年(1844)6月2日(注1.)、源内は中山道木曾の山中を通る斉宣の駕籠を猟で使う鉄砲で狙撃、斉宣は落命したと記している。
しかし、これも裏付けとなる資料などに欠け、没した月日にも多少のずれがあり、真偽の程は定かではない。
『甲子夜話』を記した松浦静山が没したのが天保12年(1841)6月29日、松平斉宣が没したのが3年後の天保15年(1844)5月10日。当然ながら『甲子夜話』には斉宣の最期は記されておらず、斉宣が20歳という若さで没したことに絡めて、後世、源内の仇討の話が作られた可能性も否めないのではないかと思われる。
静岡市の無量山 松平西福寺というお寺には、この時無礼討ちに遭った子供の供養のためにと寄進された銅製釈迦仏像が安置されているという。
詳しい経緯等は分からないが、言い伝えによると、子供の父親は、安西(静岡市葵区安西)の旧家の五郎右衛門という者で、子供の供養のために西福寺に銅製釈迦仏像を寄進したという。
松平斉宣の無礼討ちはこれに限った事ではなかった。
天保年間(1830~44)、松平斉宣が参勤交代で江戸へ向かう途中での出来事。
斉宣の行列が萩原宿(現 愛知県一宮市萩原町)の近くを通り掛かった時、暴れ馬を取り押さえようとした萩原宿の馬方(注2.)、佐吾平が行列の前を横切ってしまい、先駆の藩士に無礼討ちにされてしまった。
佐吾平は藤吉村(現 愛知県一宮市明地付近)風張の生まれで、目の不自由な母の面倒をよくみており、孝行息子として知られていた。村人たちは佐吾平の死を悼み、街道の脇に小祠を建て弔ったという。
かつて、日光川の傍に木製の孝子佐吾平の碑が立っていた。昭和30年(1955)10月、𠮷藤地区の有志の手で「佐吾平遭難遺跡碑」(昭和30年10月建立 𠮷藤有志)が、昭和56年(1981)10月には「由来説明碑」(昭和56年10月吉日 𠮷藤区 建立)が建てられた。
「佐吾平遭難遺跡碑」の碑文は、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣を務めた金森徳次郎による。
この話にも前述の無礼討ちの時と同様の後日談が伝わっている。
御三家筆頭の尾張徳川家の領民を一方的に無礼討ちにするとは許し難い行いであると、激怒した尾張藩は明石藩の領地の半分を没収。
更に、参勤交代で尾張藩の領内を通る時は夜しか許されず、喪服を着ることが命ぜられた。名古屋城下を通る時は、街道を通ることを許されず、船で堀川を行き来させられた。後に日中に通ることを許されたが、昼間でも手には提灯を持ち、喪服を脱ぐことは許されなかったという。
これらについても、裏付けとなるような記録は見受けられず、天保年間に明石藩の所領が半減したという事実もない。
しかし、周辺にはこの巷談を題材にした浪曲や芝居が伝えられている事から、尾張藩と明石藩の間で何らかの確執があったのは事実かも知れない。
天保15年(1844)5月10日、松平斉宣は病没。享年20歳。藩主に就いて僅か4年後のことであった。斉宣には嗣子がなかったため先代斉韶の嫡子、直憲が世嗣に立てられ九代藩主となった。
この巷談を題材に、昭和38年(1963)、時代劇映画『十三人の刺客』(製作:東映京都撮影所、監督:工藤栄一)(注3.)が公開された。平成22年(2010)には三池崇史の監督により『十三人の刺客』(製作:「十三人の刺客」製作委員会、監督:三池崇史)としてリメイク。更に、リメイク版の公開を機に、昭和38年公開のオリジナル版のシナリオを基に、谺雄一郎作、池宮彰一郎原案で書き下ろされた小説『十三人の刺客』が刊行された。(注3.)
【明石様】
神奈川県横浜市保土ケ谷区には「明石様」という妖怪の話が伝わっている。
言い伝えによると、11代将軍徳川家斉の時代、明石御前という乱心の殿様がいた。この明石御前、人が斬りたい衝動を抑えきれず、家臣達から城より出ることを禁じられていたにもかかわらず城を抜け出し、遊んでいた小さな女の子(猟師の娘)を斬ってしまい、娘を殺されたことを知った猟師により明石御前は殺された。
以来、この地方では、「今日は明石様が通るから外に出てはいけない」、「外に出ると明石様が出るから」と言って子供の外出を戒めたという。
何故、明石や尾張ではなく、遠く離れた横浜市にこのような伝説が残っているのかは定かではないが、松平斉宣の巷談が基になっていることは間違いないと思われる。
| 明 石 城 | : 兵庫県明石市大明石町 明石城(明石公園) |
| 孝子佐吾平遭難遺跡 | : 愛知県一宮市明地新田橋上南14-2 |
| 松平西福寺 | : 静岡県静岡市葵区大鋸町4-8 |
| 明石様伝承地 | : 神奈川県横浜市保土ケ谷区 |
注1. 「明石源内寝覚鉄砲」では、弘化元年(1844)6月2日とあるが、“天保”から“弘化”に改元されたのは天保15年(1844)12月2日なので、6月2日は天保15年である。
注2. 馬方 : 馬の背に人や荷物を載せてたり、荷を引かせて運ぶ職業の人。
注3. 映画版での明石藩主は「将軍家の弟の松平斉韶」とされたが、小説化作品では「松平斉宣」となっている。
2022.10.18 加筆再編集
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