じ ぞ う や し き
地蔵屋敷


地蔵屋敷 ある派出所では勤務した巡査が次々と原因不明のタタリに遭うという不思議な話を聞いて、冬の或る日、兵庫県加西市を訪れた。
その派出所のあった場所の名前を「地蔵屋敷」といい、如何にもいわく有り気な名前をしている。
場所は加西市の北部、広原町。ここに大正年間(1912~1926)に派出所が建っていた。
不思議な事に最初にこの派出所に赴任した巡査が急死。次に来た巡査の奥さんは急に精神に障害を来たした。以来、この派出所に勤務した巡査は次々と病気になった。
派出所が建てられて10年以上が経過するが、それまでなんとも無かった巡査がこの派出所に赴任すると暫くして原因不明の高熱を出したりし、年々その症状は酷くなっていった。
それというのも、この派出所の建っている敷地はかつて地蔵尊や五輪塔がたくさん祀られていた場所で、「地蔵屋敷」と呼ばれていた場所だった。派出所を建てる時にあまりにも無造作にそれらの地蔵尊や五輪塔を取り除いたので、そのタタリに違いないと人々は噂しあった。
人を救う地蔵さんが人に祟ることなどあるものかと、当時の矢野署長は噂の払拭にやっきになったが、その反面、配属された巡査が次から次へと病気になっているのは紛れも無い事実であった。
そこで、派出所の建っている土地の地質、水質など当時としては考え得る限りの調査をしたが、病気との因果関係は発見されなかった。
派出所の周囲には首の無い地蔵尊や、胴体の割れた地蔵尊が無造作に放置されており、遂に署長はタタリを恐れたのか村と交渉して駐在所を約50m北へ移転させる事にした。
その事を裏付けるように、加西署の沿革誌には「大正十四年(1925)十二月、広原二六七番地から三三三番地へ移転」とある。
この時、署長はじめ巡査たち関係者全員が出席して大施餓鬼をしたという。
以来、怪事はぴたりと止んだ。
地元の人の話では、地蔵尊のタタリではなく、むしろ同所にあった墓石のタタリではなかったのだろうかという事だった。
その後、昭和32年(1957)に駐在所は隣の上野町へと移転した。

「地蔵屋敷」という名前だけを頼りに広原町を訪れる。
そう広くない町を町境まで訪ねて歩くが、地蔵屋敷はおろか広原町に昔派出所があった事さえ誰も知らないと言う。
下芥田との境(広原町の北限)まで来た時、お婆さんに昔々に広原と上野に派出所があったという話を辛うじて伺ったが、詳しい事は分らないので広原のもっと町中で聞いてみなさいと教えて頂いた。
教えて頂いた通りに来た道を引き返し、広原町の町中で「地蔵屋敷」や「派出所」について聞いてみるが、誰に聞いてもそんな話は聞いたことが無いという答ばかりが返ってくる。
辛うじて、上野町にあった駐在所の事(跡)をご存知のお婆さんにお話を伺う事が出来たが、そのお婆さんもこちらに嫁いで来て長いが、広原に駐在所があったという話は聞いた事がないといわれた。

仕方無く、宛ても無く広原の町を散策する。
そして、何気なく上野交差点の少し東、県道145号線(西田中泉滝野線)から佐谷川沿いに少しばかり北に歩くと、住宅の中の一角にぽつんと小さな空き地が見えた。
そこには、地面に寝かせるようにして赤いよだれ掛けをした大きな石板に刻まれた地蔵尊が目に入った。
此処こそが探し求めていた地蔵屋敷だった。
地蔵尊の大きさは90センチ×110センチほど、地面に立てずに天を仰ぐように寝かせているのはタタリを太陽に封じてもらうためなのだという。

当時から既に75年程の歳月が経過し(探訪時)、今となっては上野町の派出所さえ無くなっている。タタリの話といえどやがて人々の記憶から忘れ去られてゆくのだろうと思うと少し物悲しい気持ちになった。

地蔵屋敷跡 : 兵庫県加西市広原町

参考資料 : 有井基. 兵庫の怪談. 神文書院, 1989

#タタリ #地蔵