【『ムー』掲載記念企画 第一弾】

ふくはらきょうのあくむ
福原京の悪夢


恋川春町『妖怪仕打評判記』より「面女」 『平家物語』 上巻 巻第五 に「物怪の事」として記されている怪事がある。
それは冶承4年(1180)、当時絶大な勢力を誇っていた平清盛が兵庫の福原(現在の神戸市兵庫区北部から中央区一帯 他)に都を遷した時のことである。都を福原に遷してからというもの、平清盛は度々悪夢にうなされ、住居とする岡の御所(注1.)には妖怪変化が現れるという怪事が起った。

ある夜の事、清盛が寝ていると一間(約1.8m)余りもある大きな顔が清盛の顔をじっと覗き込んでいた… しかし数々の修羅場をくぐって来た清盛である、少しも騒ぐ事無くその大きな顔をぐっと睨み返すと、その妖怪変化はすっと掻き消すように消えたという。
恋川春町の黄表紙『妖怪仕打評判記』には、「面女」(つらおんな)としてその時の様子が描かれている。(画像左上)。
また、ある夜は御所のすぐ傍で大木の倒れるような大きな音が響き、ニ、三千人ほどが一斉に笑う声がしたという。しかし、岡の御所は新たに造営された御所であり、周囲には大木などは一つも無かった。
「これは天狗の為せる悪戯」だという噂が立ち、昼は50人、夜は倍の100人に御所の警備をさせ、これらを蟇目(ひきめ)の番と名づけ、蟇目矢(注2.)を射させまた。
矢を天狗の居ると思われる方角に向けて放つと、何の手応えも反応も無くあたりは静まり返っているが、矢が大きく外れると、何処からとも無く件の笑い声が聞こえてきたという。

ある夜などは清盛が寝所を出て坪庭を眺めていると、遠くに見える兵庫の山並みから庭の松の木、梅の木、石燈篭それらすべてが無数の髑髏(晒し首ともいう)に見えてきた。
それらは、上になり、下になり、転がってはぶつかり合い、みるみるうちに一つの塊となり、所狭しと坪庭でうごめいている。
清盛はただちに警護の者を呼んだが生憎誰も来なかった。
そうこうしているとその髑髏の塊は益々大きさを増し、坪庭いっぱいに広がり、その丈も十四、五丈(約 42~45m)にまで膨れ上がり、小さな山のようになった。そして、大きな眼が二つ(大頭に千万の眼ともいう)現れたかと思うと、瞬きもせずきっと清盛を睨みつけてくる。しかし、清盛も少しもひるむ事無く睨み返すと、それは霜が日の光で溶けて行くように跡形も無く消えたという。

『平家物語』では、この怪事を清盛の武勇伝として扱っているが、これとは異なる話も伝わっている。

それは清盛が福原に都を遷そうと画策していた時にまで遡る。
その頃の福原の地は僅かな民家と湊川の氾濫で出来たいくつもの沼が点在するばかりだった。そこで、遷都にあたり、清盛はまずこの沼を埋める事を試みた。しかし、度重なる湊川の氾濫で思うように土木は進まなかった。そこで清盛は苦渋の選択を強いられた。
それは予てより考えてはいたが、実行に移す事が躊躇われていたのだった。
そして、清盛は遂に人柱を立てることを決意した。そのために逞しい36人の男が選ばれ、彼らは人柱として生きたまま川の堤防へと埋められた。
そうせざるを得なかった事への自責の念と後悔が清盛を苛み、やがて清盛は高熱を出し病床に臥した。
高熱で朦朧とする意識の中、清盛の目に映るもの全ては髑髏となり清盛を恨みがましい眼で睨みつけてくる。遠くに見える兵庫の山並みから庭の松の木、梅の木、石燈篭それらすべてが無数の髑髏に見えてきたのだ。
これは人柱として生き埋めにされた36人の怨霊に違いない、清盛は朦朧とする意識の中でそう思っていた。

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「目競」 鳥山石燕は、この時の様子を『今昔百鬼拾遺』下之巻 雨の中で「目競」(めくらべ)と名付け、積み重なった髑髏と共に下記の様に記している。(画像右下)

大政入道清盛ある夜の夢に、されかうべ(しゃれこうべ)東西より出てはじめは二つありけるが、のちには十、二十、五十、百、千、万、のちにはいく千万といふ数をしらず。入道もまけずこれをにらみけるに、たとへば人の目くらべをするやう也しよし。平家物語にみえたり。

この巷談を題材として扱ったものは、歌川豊国の『福原殿舎怪異の図』(国立国会図書館蔵)をはじめ、月岡芳年の『新形三十六怪撰』より「清盛福原に数百の人頭を見るの図」、同じく芳年の『新容六怪撰 平相国清盛入道浄海』等、浮世絵としていくつかが残されている。

翌年の養和元年(1181)閏2月4日、京都に戻った清盛は64歳の生涯に幕を閉じた。死の間際、清盛は人も近寄れない程の高熱に苦しみながら没したと伝え、熱がひいた頃を見計らい、ある者が清盛の亡骸に近寄ってみると、すでに亡骸は灰と化していたともいう。
同2月7日、洛東の愛宕にて亡骸は荼毘に附され、左大臣藤原実能の息子、円實法眼が遺骨を首にかけ摂津国へ下って兵庫の経が島(注3.)に埋葬された。

兵庫運河に架かる大輪田橋のたもとに十三重石塔の清盛塚がある。これは弘安9年(1286)時の執権、北条貞時が追善供養のために建立したものと伝える。この塚は清盛の墳墓ではなく、埋骨の地は今もって定かではない。

伝承地 : 兵庫県神戸市 (福原京 岡の御所)
清盛塚 : 兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3

注1. 岡の御所 : 福原京内に造られた平清盛の邸宅。
『平家物語』 覚一本には「故入道相国(平清盛)の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿、松陰殿、馬塲殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所 云々」とある。
岡の御所がどの辺りに在ったのかについては定かではない。
注2. 蟇目矢(ひきめや) : 引目矢とも書く。矢の先端に付ける「鏑」(かぶら)というものに数か所の穴が開いており、矢を放つとこの穴に空気が入ることにより笛の様な鋭い音が鳴る。この音が邪悪なものを払い清めるとされ、魔除けなどに用いられた。
注3. 経が島 : 平清盛の命により、日宋貿易の拠点である大輪田泊の交易の拡大、風雨による波浪を避けるために築造された人工の島。その広さは『平家物語』に「一里三十六町」(約 37ha)とある。
神戸市兵庫区の阪神高速3号神戸線以南、JR西日本和田岬線以東の地に在ったと考えられている。一説には、経が島築造にあたり人柱となった平清盛の侍童、松王丸(讃岐国香川領主大井民部の子)の供養のため建立されたと伝える来迎寺(築島寺、神戸市兵庫区島上町2丁目1-3)の辺りともいう。


2021.03.04 再編集

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