ふくはらきょうのあくむ
福原京の悪夢
『平家物語』 上巻 巻第五 に「物怪の事」として記されている怪事がある。それは冶承4年(1180)、当時絶大な勢力を誇っていた平清盛が兵庫の福原(現在の神戸市兵庫区北部から中央区一帯 他)に都を遷した時のことである。都を福原に遷してからというもの、平清盛は度々悪夢にうなされ、住居とする岡の御所(注1.)には妖怪変化が現れるという怪事が起った。
ある夜の事、清盛が寝ていると一間(約1.8m)余りもある大きな顔が清盛の顔をじっと覗き込んでいた… しかし数々の修羅場をくぐって来た清盛である、少しも騒ぐ事無くその大きな顔をぐっと睨み返すと、その妖怪変化はすっと掻き消すように消えたという。
ある夜などは清盛が寝所を出て坪庭を眺めていると、遠くに見える兵庫の山並みから庭の松の木、梅の木、石燈篭それらすべてが無数の髑髏(晒し首ともいう)に見えてきた。 『平家物語』では、この怪事を清盛の武勇伝として扱っているが、これとは異なる話も伝わっている。
それは清盛が福原に都を遷そうと画策していた時にまで遡る。
大政入道清盛ある夜の夢に、されかうべ(しゃれこうべ)東西より出てはじめは二つありけるが、のちには十、二十、五十、百、千、万、のちにはいく千万といふ数をしらず。入道もまけずこれをにらみけるに、たとへば人の目くらべをするやう也しよし。平家物語にみえたり。 この巷談を題材として扱ったものは、歌川豊国の『福原殿舎怪異の図』(国立国会図書館蔵)をはじめ、月岡芳年の『新形三十六怪撰』より「清盛福原に数百の人頭を見るの図」、同じく芳年の『新容六怪撰 平相国清盛入道浄海』等、浮世絵としていくつかが残されている。
翌年の養和元年(1181)閏2月4日、京都に戻った清盛は64歳の生涯に幕を閉じた。死の間際、清盛は人も近寄れない程の高熱に苦しみながら没したと伝え、熱がひいた頃を見計らい、ある者が清盛の亡骸に近寄ってみると、すでに亡骸は灰と化していたともいう。
兵庫運河に架かる大輪田橋のたもとに十三重石塔の清盛塚がある。これは弘安9年(1286)時の執権、北条貞時が追善供養のために建立したものと伝える。この塚は清盛の墳墓ではなく、埋骨の地は今もって定かではない。
注1. 岡の御所 : 福原京内に造られた平清盛の邸宅。 『平家物語』 覚一本には「故入道相国(平清盛)の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿、松陰殿、馬塲殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所 云々」とある。 岡の御所がどの辺りに在ったのかについては定かではない。 注2. 蟇目矢(ひきめや) : 引目矢とも書く。矢の先端に付ける「鏑」(かぶら)というものに数か所の穴が開いており、矢を放つとこの穴に空気が入ることにより笛の様な鋭い音が鳴る。この音が邪悪なものを払い清めるとされ、魔除けなどに用いられた。 注3. 経が島 : 平清盛の命により、日宋貿易の拠点である大輪田泊の交易の拡大、風雨による波浪を避けるために築造された人工の島。その広さは『平家物語』に「一里三十六町」(約 37ha)とある。 神戸市兵庫区の阪神高速3号神戸線以南、JR西日本和田岬線以東の地に在ったと考えられている。一説には、経が島築造にあたり人柱となった平清盛の侍童、松王丸(讃岐国香川領主大井民部の子)の供養のため建立されたと伝える来迎寺(築島寺、神戸市兵庫区島上町2丁目1-3)の辺りともいう。 2021.03.04 再編集 #妖怪 #面女 #目競 #髑髏 #供養塔 #平家物語 |