
昭和54年(1979)、明姫幹線(国道250号バイパス)の建設工事により一部が削り取られた香盤池は、地元では「タタリの池」として恐れられていた。往時は木々が生い茂り、その中には六地蔵と墓が並び、地元の人達は一歩でも足を入れるとタタリがある、ここの木を伐ったり、触るとタタリがあるとして誰も近づかなかった。
天平年間(729~749)に行基が造ったといわれるこの池は、面積2500平方メートルの長方形(楕円形とも)で、中に細長い四列の堤状になった島があった。
この池は灌漑用池ではなく、地元ではこの池を「大三昧」(おおざんまい、大きな墓地)と呼んでいることからもわかるように、この堤状の島の上で野辺送りをしていた所らしく、また埋め墓地の入口に位置しており、周辺地域一帯を含む土葬地であったらしい。
天正8年(1580)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は別所長治の拠る三木城(三木市上の丸町)の兵站線を絶ち兵糧が尽きるのを待つ兵糧攻めに出る。手始めとして三木城包囲を固めるべく別所氏と同盟関係にあった豪族たちの城を攻めた。
魚住城(明石市大久保町西島)攻略の足掛かりとして光触寺(明石市大久保町)を本陣として、ここに池田輝政を配した。光触寺には、太閤腰掛松、池田輝政寄進の表門がある。
魚住城は中国の毛利氏から三木城への兵糧、その他の武器などの物資の兵站の拠点として重要な役割を担っていた。魚住城の他にも、高砂や加古川、摂津から淡河などを経て、東播八郡(注1.)の豪族や毛利氏などから三木城に多くの物資が搬入されていた。しかし、これが秀吉の知るところとなり、物資の輸送に加担した人々は女子供に至るまで悉く虐殺された。魚住城での物資搬送の差配にあったていた西嶋の総代卜部安知(うらべやすとも)ら数百人も捕らえられ、馬石の岡(馬石の丘)で処刑、近傍の長坂寺(明石市魚住町長坂寺)やここ香盤池付近に埋められたという。
丹生山の稚児墓山、上月城の親子地蔵などの由来にある様に、女子供を選ばぬ虐殺の限りを尽くした秀吉であったが、流石に後難を恐れたのか、この時(魚住城攻略)、秀吉は三途の川の渡し賃と言われる六文銭を共に埋葬したと言われている。
その後、水田開発のため村人がこの辺りを掘り返していると、棺桶や数十体の人骨と共に言い伝えを裏付けるように永年間の銘を有する古銭(六文銭)が出土した。それからというもの村中で不幸が続いたといわれ、以来「六文首塚」と呼んで誰も近づかなくなったという。
余談ではあるが、同町長坂寺(地名)にある遍照寺境内には三木城主、別所長治の供養塔といわれる五輪塔が建っている。
時代は下り昭和42年(1967)、明石と姫路を結ぶ明姫幹線の工事が始まり、明石市内の延長9.3キロメートルのうち、6.8キロメートルが完成。香盤池の両岸近くまで用地買収が済み、魚住町西岡の明石工専前まではすべて着工準備が終わっていた。
しかし、建設予定ルート上に香盤池があり、地元の古老たちはタタリを恐れ道路工事に反対。なかなかここだけが用地買収に応じてくれない。土地の管理者である金ケ崎財産区との度重なる交渉の末、昭和47年(1972)10月、「盛大に神事を行なう」事を条件に話し合いが成立、西明石から魚住町西岡の明石工専前まではすべて着工準備が終わった。
用地買収並びに工事着工の条件として挙げられた慰霊祭については、当時この事を取り上げた新聞(神戸新聞 昭和47年10月20日)には、「神事」とあり、一方、近傍の延命寺の新改住職はじめ多くの僧侶や地元の人たちの手によって大供養が行なわれたという話もある。
盛大な慰霊祭が行われたものの、実際に着工するとなるとなかなか思うように進まない。そこで兵庫県土木部明姫幹線建設事務所は地元の人達を説得するために地元の人達数名に科学的調査を以来することとなった。
かくして、昭和54年(1979)2月末より調査が始まったのだが、この時調査に加わった一人が原因不明の高熱を発症、しかし工事の中断を懸念したその人が黙っていたため取り敢えず調査は終了。その調査結果報告がひとつのきっかけとなり、同年3月、香盤池にあった六地蔵が南へ200メートルほどの所にある延命寺の境内に移され、供養塔を建立し施餓鬼供養が行われた。
これにより無事明姫幹線は開通に漕ぎ着けたのである。
柳井集落の北、明姫幹線の金ヶ崎南交差点の北東には古い墓石が集められており、明姫幹線の工事前は村の戸数に比して相当大きな墓地であった事から、周辺には三木合戦に関連した多くの人が埋葬されたのではないかと言われている。
明姫幹線の開通にともない、ここに新たに六地蔵が建立されている。
しかし…
それ以降も近くの中学校で生徒が校舎の4階から転落して亡くなったり、体育館の天井が落ちるなどの事故が相次いだため、人々は口々に香盤池のタタリだと噂し、結局のところ神主が呼ばれ御祓いが行われたという。
延命寺境内には前述の六地蔵、供養塔と共に香盤池の由来を記した記念碑がひっそりと佇んでいる。
以下、記念碑碑文より。
此の処より北へ約二百米に四つの島からなる香盤池がある。
この池は天平年間 行基菩薩のゆかりの池として 一方、三木上の落城にも関与していると言い伝えられている。
埋め墓地の入口に属し 昔より死者の冥福を祈るために重要な池であつたと考えられる。
明姫幹線の貫通のためこの池に 記念碑を建立する。
昭和五十四年四月吉日
|
タタリ伝説とはいえ、やがてはこの伝説も明姫幹線を行き交う車の轟音に埋もれて行くかと思うと何か言い表し様の無い気持ちになった。
| 香盤池跡 | : 兵庫県明石市魚住町金ケ崎柳井 |
| 延 命 寺 | : 兵庫県明石市魚住町金ケ崎柳井898 |
注1. かつて播磨国東部に存在した八つの郡。美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡。
| 参考資料 : | 有井基. 兵庫の怪談. 神文書院, 1989 |
| 魚住村誌編集委員会編. 魚住村誌. 魚住村誌編纂委員会, 1957 |
| 平野庸脩. 播磨鑑. 播磨史談会, 1909 |
| 魚住町の六文首塚 明姫幹線道路に. 神戸新聞, 昭和47年10月20日 |
| 香盤池記念碑碑文(昭和54年4月 建立) ほか |
2023.05.19 加筆・再編集
#タタリ #行基 #塚 #供養塔 #池 #寺院