
国道171号線が県道42号線(尼崎宝塚線)を跨ぐ高架の北西角、大手スーパーへの買物客で賑わうこの町の一角に、忘れ去られたように大きな石碑がある。表面には「師直冢」と彫られている。南北朝期に活躍した足利尊氏の執事、高師直(こうのもろなお)の墓標である。
足利尊氏の執事であった高師直は南朝の北畠顕家、楠正行らを敗死させるなどの軍功をあげ、弟師泰とともに徐々に絶大な権力を握り始めた。
しかし、その結果、高兄弟の功名心は足利幕府の内紛を激化させる結果となってしまう。師直は足利尊氏に取り入り、尊氏の弟直義を排斥しようと企てたのだ。
足利直義は南朝と手を組み、播磨にて足利尊氏、高師直を破った。更に、観応2年(1351)2月、摂津打出浜(芦屋市)で再び戦うが、ここでも尊氏勢は破れ、松岡城(神戸市須磨区大手町、勝福寺裏山周辺に在ったとされる)に撤収。尊氏は一時は自決を覚悟するが、まもなく直義との和睦が成立。尊氏は自決を免れた。
この時、高師直兄弟は一時、四国にでも逃れ再起を図ろうとも考えていたらしいが、頼りにしていた一族の高師冬が時を時を同じくして関東にて討たれた。再興の夢がついえた師直、師泰兄弟は剃髪し恭順の意を表し京に上ろうとしていた。
しかし、同年2月26日、武庫川を過ぎた辺りで足利直義方の上杉能憲の家臣、三浦八郎左衛門らによって師直父子、師泰父子ら一族は悉く暗殺された。
上杉能憲は父重能を高師直に暗殺されていたからだった。
『太平記』によれば、高師直と二条関白の妹との間に生まれた五郎師夏もこの時捕らえられ、まだ十五に満たない師夏を哀れんだ上杉家臣が「出家せよ」と勧めたが、父師直の死を知った師夏は出家を拒み、死を選んだと伝えている。
師直らの暗殺が、足利義直の指図によるものなのか、上杉能憲の判断によるものなのかは定かではない。
乱世の雄の最後はかくも儚かった。
田の中に高師直の墳墓は残っていたそうだが、明治末期ごろ、田の所有者が耕作の妨げになると取り壊した。しかし、いくら昔の話といえど墓を取り壊した事から後難を恐れ、大正4年(1915)2月、川辺郡山田村(現 伊丹市山田)青年会の発起で村人の協力を得て現在の供養碑を建立した。
ところが、昭和37年(1962)、師直塚の碑の建っている土地を建設会社の社長が買い取り、自らが経営する工場の正門の植え込みに師直塚の石碑を移設してしまった。
移設の承認を得るためこの社長が伊丹市役所を訪れた時、数名の人があの石碑を動かせば悪霊が目を覚ますので止めておいたほうが良い、と諫めたそうである。
翌年の5月、当時の金額で工費50万を出して石碑を移設。それからである…従業員の事故、負傷、自動車事故と災難が連続して起こり、ついには社長の夫人までが病気を患い寝込んでしまった。更に、会社の経営は悪化、遂には社長も師直塚のタタリだと石碑を元の位置に戻した。
その後、何事も無く過ぎていったが、昭和42年(1967)秋、国道171号線拡幅工事のための用地買収が始まった時の事である。その道路拡幅用地に丁度師直塚があったから誰もが頭を痛めた。
工事事務所はその対応に苦慮し伊丹市の教育委員会と相談、師直塚(石碑)の引き受け先を探したが誰もがタタリを恐れて手が出せない。
結局、工事開始直前の同44年(1969)3月、昆陽寺の住職を招いて移設の法要を執り行い、現在の建設省用地へと落ち着いたのである。
高師直塚 : 兵庫県伊丹市池尻1丁目
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| 現地解説板(伊丹市教育委員会 平成5年3月1日 設置) ほか |
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