
西宮市の満池谷墓地の南側に小さな貯水池がある。
映画『火垂るの墓』では、幼い清太、節子兄妹が横穴に住んでいた池のモデルにもなった場所だ。
SF作家の「御三家」の一人、小松左京は少年時代や青春時代を西宮市で過ごしており(注1.)、生涯の約3分の1近くを西宮で過ごしていた。
西宮市情報公開課に保管されている、小松左京が西宮について書いた私信のなかに、このニテコ池の伝説についても記されている。
池谷ニテコ池に怪異があり、高僧が身を犠牲にしてこれを封じたとか、また大正期に西宮の警察署員が大挙して、この池の「主」といわれる大狸を退治したとかいう話を、小学校のころ読んだ記憶があります。特に後者は、何かちゃんとした雑誌で読んだおぼえがあり、子供心に黄昏の満池谷ニテコ池界隈は -当時東隣にあって、同池におちた隕石なるものを飾っていた長井遊園の樹林の暗さとともにー 何やら気持ち悪い所でした。何か実際に、そういった類の記録があるようでしたらご教示を賜れば幸甚です。
このように、当時の人々を怯えさせたニテコ池の「不気味な気配」や「怪異の噂」は、小松左京が耳にするよりもさらに昔、明治の時代からこの地に深く根を下ろしていたようである。
小松左京が探していたような「ちゃんとした記録」そのものではないかもしれないが、実はこれより一世代前、この地を旅した一人の英国人博物学者の手記の中に、ニテコ池の怪異を裏付けるかのような奇妙な伝承が書き残されていた。
明治末期、日本を訪れたイギリス人博物学者リチャード・ゴードン・スミス(Richard Gordon Smith,1858-1918)の見聞録の中には、ニテコ池と思われる池にまつわる非常に興味深い伝説が記されている。
それは明治37年(1904)、ゴードン・スミスが西宮の友人タダマツという男の案内で「ネテトテコイ池」と呼ばれる池の端にヤマシギ(注2.)を探しに出かけた時のことだった。
ヤマシギは見つからなかったのだが、そこでタダマツがこの池にまつわる奇妙な話をスミスに話せて聞かせた。
その話によると、この池は親に結婚を反対され結ばれる事の許されない恋人たちがあの世で結ばれようと心中に来る場所だという。そこで、心中した人たちの供養のため16年前(明治21年(1888))にに池の傍らに背の高い石碑(A tall stone column)を立て供養したのだが、それでも心中は後を絶たなかった。
なんでも、この池には“悪霊”と呼ばれる60~70ポンド(約27~32キログラム)もある巨大なスッポンが棲んでいて、池の端を通る人をおびき寄せては食らっていた。
ある時、この池の水が干上がった事があり、そのスッポンが捕らえられ西宮で見世物になっていたという。タダマツはその時、2セント(当時の7円程度?)の見物料を払い、実際にそのスッポンを見たということだった。
それから3、4日すると、その巨大なスッポンは病気になってしまい、スッポンを捕まえた農夫は後難を恐れすぐにこのスッポンを池に帰したという。
それ以来、僅かではあるが心中をする者が減ったが、それでも入水自殺をするものは後を絶たなかったという。
また、これとは別に、この池には奇妙な話が伝わっている。
30年ほど前(1874年頃?)のこと。富山の薬売りの行商人がこの池の端を通りがかった。そして、しばらく水面を眺めて一休みしていると、何を思ったのか、薬売りは履いていた草鞋(わらじ)を脱いで池に放り込むと、今度はその後を追うように彼自身が池に飛び込もうとしていた。
たまたま畑からの帰り、大根を担いで通りがかった農夫がそれを見つけ慌てて薬売りを取り押えた。
あまりに突然のことに農夫がこの薬売りに問いただすと、薬売りはいたって真面目な顔で農夫にこう言った。
「貴方にはあの綺麗な家が見えないのか?ほら、なんて美しい青畳なんだ。あそこへ土足のまま上がることなどできるわけないだろう。家の人が私の薬を買いたいと呼んでいるのが見えないのか?」
農夫はこの薬売りを池から引き離し、この池にまつわる不思議な話を聞かせてやった。
すると、それまで夢でも見ていたかのように薬売りは正気を取り戻したという。
これも、件のスッポンの仕業だったのであろうか。
小松左京が「ニテコ池に怪異があり、高僧が身を犠牲にしてこれを封じた」というのは、先のゴードン・スミスの手記で紹介されている巨大スッポン伝説が元になっていると思われる。
池の南西隅には地蔵と石碑がある。これが、ゴードン・スミスの手記で紹介された「背の高い石碑(A tall stone column)」であろう。
『西宮の地蔵』によると、2体の「地蔵の中央に石碑があり、正面に「(梵字)法界聖霊塔矣」、背面に「(梵字)旹2明治廿二年七月建之 中島仁兵ヱ/米谷茂助 石工田中仙之助」と彫られている。また、右面の「功徳主 辰馬悦蔵」、左面の「功徳主 阪口吉蔵」の下にそれぞれ多くの人名が彫られている。」とあり、阪口吉蔵の子息、浩平の談話が載せられている。
この談話は、西宮の地域情報誌『宮っ子』36(昭和57年12月号)「たいしゃ」のページに「大社今昔(七) ニテコ池周辺」に収められたものである。
「さて、四面の石柱に刻まれた文字を詳解しておこう。
正面に法界 聖霊塔
裏面は 明治廿二年七月建立、その下に大日寺と永福寺の住職二人の名前、更にその下に建立に従事したと思われる三人の名前が記されている
左側面に、功徳主阪口吉蔵 その下に十八人の名が、更に、
右側面は、功徳主辰馬悦蔵 その下に十五人の名前がそれぞれ刻まれている。
百年近い年月を風雨に曝されながら、皆様のどなたかのご先祖のお名前がここに明瞭に残されているのであります。
(中略 / ここより阪口浩平氏の談話)
父は若くして家業を継ぎ酒造界や市政界の仕事に熱情を傾け多くの知を得たこと。
聖霊塔については幼い頃より聞いた記憶はあるが深い関心もなかった。今にして思えば明治のあの時代は世の中が貧しく不安定な時代で自殺が流行し、ニテコ池にも身投げや心中が跡を絶たなかったと言われていた。」
『宮っ子』36(昭和57年12月号)「大社今昔(七) ニテコ池周辺」より。
明治時代、貧しく不安定な時代で自殺が流行し、ニテコ池にも身投げや心中が後を絶たなかった。
それらの不幸な霊を慰めるための供養塔を建立したのだろうという話である。
施主の一人、辰馬悦蔵(三代)(1892 - 1980)は北辰馬家第三代当主。酒造業を営み、昭和4年(1929)、酒造業の全般を株式会社辰馬悦蔵商店に移して自らその社長となる。銘酒「白鷹」の醸造元として知られる。
阪口吉蔵は家業を継ぎ酒造界や市政界の仕事に尽力、息子の浩平(1921 - 1983)は、平成4年(1994)に京都帝国大学理学部動物学科を卒業後、京都大学助手、大阪大学微生物研究所研究生、大手前女子大教授、京都大学医療技術短大部教授などを歴任。理学博士、近畿甲蟲同好會および後継の旧日本甲蟲學會の設立・運営にプロの研究者として尽力された。
ゴードン・スミスの手記に登場する「ネテトテコイ池」とは「ニテコ池」と考えて間違いないだろう。
西宮神社の大練塀(土塀)に使う土をここから運び出す時、土を練って運んだ時の「ネッテコイ、ネッテコイ」とかけ声をかけていた事から「ニテコ池」と名付けられたといわれている。
「ネテトテコイ」とは、つまり「練って取ってこい」の意と思われる。
(神戸史学会委員の渋谷武弘は、ニテコ池の名称について、前述の掛け声に由来するとの説を紹介しつつも、「ニテコ」は川を堰き止め水を貯める「井手」が「仁手」 に転じたものと推測している。)
関係があるのか否かは分からないが、「ニテコ」とはアイヌ語で「森林の水溜り」を意味するらしい。
ニテコ池 : 兵庫県西宮市奥畑
注1. 昭和8年(1933)から同9年(1934)と昭和11年(1936)から同19年(1944)夙川に、昭和19年(1944)から同31年(1956)今津に、昭和32年(1957)から同35年(1960)甲東園に住んでいた。生涯の約3分の1を西宮で過ごしている。
注2. 山鷸、山鴫。チドリ目シギ科に分類される鳥。
| 参考資料 :
| 西宮コミュニティ協会. 「たいしゃ」25 大社今昔7 ニテコ池周辺 『宮っ子』36(昭和57年12月号), 1982 |
リチャード・ゴードン・スミス. 荒俣 宏 翻訳・解説. 大橋悦子 共訳. 小学館, 1993 |
西宮市立郷土資料館編集. 西宮市文化財資料. 第59号 西宮歴史調査団・調査報告書. 第2集 『西宮の地蔵』. 西宮市教育委員会, 2013 |
2026.05.20 加筆再編集
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