に ゅ う が い け
入 が 池


入が池 入が池は、和銅7年(714)当地方を開拓した藤原弥吉四郎の孫にあたる光大衛(みつだいえ)が造ったと伝える溜池で、この池には次のような言い伝えが残っている。

皇極天皇3年(644)、勅命を受けた藤原弥吉四郎が西国に赴く途次、蛸草郷(注1.)で一人の老人に声を掛けられた。
その老人は弥吉四郎に、この地を開拓すれば末代まで一族は繁栄するであろう、と伝え姿を消した。
弥吉四郎はその話を帝に伝え、この地の開拓に取り掛かった。
この辺りは毎年夏になると日照りが続き水不足となる事から、川の上流の広い谷に堰堤を築き、池を築こうとしていた。
しかし、この溜池は雨が降ると堤が切れ、雨が降らずともしばしば切れた。遂に村人は池の築造を諦めてしまっていた。

弥吉四郎の孫に光大衛という人物がいた。
或る夜、光大衛の夢に僧が現われ、「この池は水源の掛かり水が強いためこれまでどんな堤を築いても切れた。それ故、堤を六枚屏風の形に築き、また大水を除くには北方の山際の堤の下に築きそこで水を越させるがよい。築いているうちに一人の美女が来るだろうからその女を人柱にすれば池は完成すれであろう。」と告げた。
光大衛がその夢を見たのが2月2日の事といい、翌月の3月18日よりその夢のお告げに従い池を築き始めた。
4月12日、夢のお告げ通り一人の美女がそこを通りかかった。
人々は直ちにその女を切り伏せて池の人柱としてしまった。
そして池は無事完成した。以来、池はどんな大雨にも堤は決して切れることはなく、どんな旱(ひでり)にも漫々たる水を湛えた。
この時、人柱と成った女の名を「入(にゅう)」といったので、この池を「入が池」と呼ぶようになったという。

天平10年(738)4月中頃、里人がこの北谷で目は丸く毛の赤い身の丈6尺(約180センチメートル)余りの女に出会った。里人は驚いて逃げようとするのを化生の者が呼び止めて、「我は形は鬼なれども、実は和銅七年四月十二日に池の人柱となったものである。我はもとこの山に五百年来棲んでいる蛇(白蛇)であったが、たまたま行きかかると大勢の人々がいたので美女に姿を変えたところを、思わず切り伏せられ、堤の人柱とされたのである。その時は怒りを静める事が出来なかったが、今は池が完成して人々が喜ぶこと限りない有様を見て、わが魂魄はこの池に留まっている。汝は里に帰り、この池の水の流れる里の内の川のほとりに四月十二日を命日とし、僧を頼んで我を祭れ。」と語った。
そこで、この池から流れる曇川のほとり、北山の西の端に一堂を建てて入の御霊を祀った。これが今の北山の川上真楽寺(かわかみしんぎょうじ)と伝え、境内にはこの謂れを記した『川上真楽寺縁起』(原文)を刻んだ石碑が昭和25年(1950)に建てられた。
昭和52年から54年(1977~1979)にかけて「ため池等整備事業」により大改修が行われ、記念碑、頌徳記碑と共に、光太衛を祀る藤原霊社が建立された。

土地の人はこの池を「ボ池」とも言っている。ボ池の名前が何に由来するのかは解からないが、この辺りの地名を「母里(もり)」と言っていっていたことから「母池」ではないかとか、すぐ側に墓地が有るので「墓池」かとも考えられるが確かなことは解からない。

昭和30年(1955)頃、池を貫くように道路が造られ、池は現在この道路によって二つに分断されている。
余談ではあるが、この道路敷設工事の時(一説には護岸工事の時とも)に作業員の方が2人生き埋めになったそうである。
この亡くなった作業員の方がこの町の愛宕(稲美町愛宕)の人であったことから、この霊を愛宕神社に合祀したといい、今も2月24日はその供養のための祭礼があるという。

入が池 : 兵庫県加古郡稲美町北山

注1. 蛸草郷(たこくさごう) : 現在の加古郡稲美町大字蛸草ではなく、蛸草六か村(中村、森安村、六分一村、国安村、北山村、岡村)。中一色、幸竹、和田を除いた現在の天満地区に相当する。

参考資料 : 宮内様よりお聞きした話
稲美町史編集委員会編. 稲美町史. 兵庫県加古郡稲美町, 1982
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2021.03.08 再編集

#人柱 #蛇 #池