
岡山県浅口市鴨方町六条院中に「生石(おんじ)のう様」(「生石皇様」と表記されることもある)と呼ばれる石が祀られている。
付近は六条院中の他に六条院東、六条院西の地名があり、かつてこの地が平安京に建立された六条院の所領であったことに由来している。
六条院とは、永長元年(1096)8月に平安京の六条内裏で薨去された白河上皇の皇女、郁芳門院の追善供養として、翌2年(1097)10月に上皇が六条内裏を仏寺としたもので六条御堂とも称された。
鎌倉時代末期の室町院所領目録の中に「六条院領備中国大島保」と記されている。
国道2号線から三叉路を南に1キロほど行くと、生石バス停のそばに「生石のう様←」と書かれた看板が立っている。
民家と畑の間に続く細い道を少し進むと、解説板と小さな生垣が目に入る。
生垣に囲まれた中を覗くと、中央に穴(窪み)の開いた石が鎮座している。こちらが「生石のう様」だ。
備前国を主な所領とする岡山藩はここ備中国鴨方にも知行地があった。
当地に伝わる伝説によると、備前岡山藩初代藩主、池田光政が当地を巡見した時、地元の名主、平井家の庭の石に目がとまり、御後園(後楽園)の庭石にするためこれを持ち帰った。
すると、夜ごとこの石が「生石へいのう、生石へいのう」(生石へ帰ろう、生石へ帰ろう)と泣いた。
城の庭園である御後園に移され、藩主のお膝元に居られるというのに帰りたいとは何事かと、立腹した光政が「無礼なり」と刀で斬り付けた。すると、なんと石から血が噴き出した。
これには光政も驚き、この石は生きておると元あった平井家に戻したという。
石の中央にある穴(窪み)は光政がこの石を手水鉢にしようとした時に石工が鑿で穿った時のものとも言い、先ほどの話とは少し違う、次の様な話も伝わっている。
岡山藩主の池田光政が後楽園の手水鉢にするための石を探していた時の事、光政の家来が地元の名主、平井家の庭石に目を付けた。これを持ち帰れば殿様(光政)も喜ばれるだろうと、この石を譲り受け持ち帰った。
手水鉢にしようと石工が鑿を入れると、石は血を噴き出し、夜ごと「生石へいのう、生石へいのう」と泣いた。それを聞いた光政が石を元あった平井家に戻したという。
そのような事があってからというもの、人々はこの石を「生石のう様」として祀り、今日でも氏神祭礼の当日にはお祭りをしているという。
故郷を離れた人が生石のう様に「帰りたい」と願をかけるとよく聞いてくださると言われている。
戦時中には出征される兵隊さんが無事に帰れるようにと願う人が多かったといい、武運長久の神様としても信仰されていたという。
「生石」(おんじ)は、六条院中の字で、生石の谷にかつて文珠坊五ヵ寺があり、戦国時代には「御寺」(おんじ)と書かれていたものが、後に「生石」になったといわれている。
「生石のう様」の名前については、「いのう」(去のう)は岡山の言葉で帰ろうという意味で、「生石へ」は同様に岡山の言葉では「生石ぃ」となる。「生石ぃ いのう」が「生石のう」になったと考えられている。
生石のう様の頂部にある穴(窪み)や、生石の谷にかつて文珠坊五ヵ寺が存在したことから鑑みて、生石のう様は寺院の礎石であったのではないだろうかと思う。
昔話に史実を照らし合わせるのは野暮というものだが、後楽園は備前岡山藩の二代藩主である池田綱政(光政の長男)により江戸時代初期の貞享4年(1687)から14年の歳月をかけて造営されたもので、着工時には光政は亡くなっている。
生石のう様 : 岡山県浅口市鴨方町六条院中
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