う で づ か じ ん じ ゃ
腕塚神社


腕塚神社 子午線のまち、日本標準時の町で知られる明石市の天文科学館の近く、山陽電鉄の線路脇に薩摩守平忠度(さつまのかみ たいらのただのり)の腕を祀る小さな祠「腕塚神社」(腕塚大明神)があった。(後述するが、昭和59年に遷座。画像は遷座前)

薩摩守平忠度は平清盛の六番目の弟で、寿永3年(1184)の源平一ノ谷の戦いに際し西門の大将として一ノ谷の守備に当たっていた。
忠度は平家の公達の中でも文武兼備の名将で、西門一ノ谷は地勢もよい要害堅固なので、他の陣所よりも兵の数も少なかった。しかし、それが災いしてか源義経の奇襲攻撃を受け陣はたちまち壊滅。忠度は予てより船を用意していたので、駒ヶ林(神戸市長田区駒ヶ林町付近一帯)に向かって逃走をはかり、須磨を出て板宿に至り、そこから川に沿って下って行った。
忠度の後を追ってきた源義経の家臣、岡部六弥太忠澄が駒ヶ林の北方でこれに追いつき、馬を馳せ並べて取り組んだ。忠度は岡部を三度刺したが通らず、もう少しというところで岡部の郎党がこれを助け、忠度の右腕を斬り落とした。
忠度はもはやこれまでと岡部を左手で振り払い、念仏を唱え静かに西に向かい正座した。
この時、岡部が忠度に名を尋ねたが答えることはなかった。
はたして忠度は討たれ、岡部が鎧を調べると簸(注1.)に結び付けられた一巻の歌稿があった。中には「旅花宿」(りょしゅくのはな)という題で

行き暮れて木の下蔭を宿とせば
花や今夜のあるじならまし

とあり、忠度と書かれてあったため岡部は彼が薩摩守平忠度と知った。

腕塚という名前の初見は、『海瀕舟行図』(注2.)の図中に「薩摩守平忠則(ママ)」とあり、その左に「ウデヅカ」と記されている。また、明石藩の地誌『采邑私記』(注3.)の「腕墳」(ウデヅカ)の項に「埋ニ平忠度之腕于此一云今猶累々近二忠度之墓一此所有二歩レ卒之舎一曰腕墳一」とある。
『摂津名所地図』(注4.)に描かれた「忠度塚」(『摂津名所地図』では忠度塚は五輪塔の姿が描かれている。現在の腕塚堂か?)には 「忠度最後所ハ摂州駒ヶ林ニ有森長源八死骸を大蔵谷へ上ルト清水記ニ有由大蔵谷忠度塚ノ上ノ石塔六拾年前ニ有之候生駒甚介(正親)殿舟上(船上)ニ城御取立ノ節退轉仕候明暦三年ニ(明石)城主(松平)忠國公石碑ヲ御立被成其御哥ニ」とあることから、駒ヶ林で討たれた忠度の遺骸を森長源八という人物が大蔵谷に運んだと思われる。これが現在明石市にある忠度塚である。腕塚については書かれていないが、この忠度塚の建立に何か関係があるのではないだろうか。
かつて両馬川(注5.)のほとりに忠度の腕を埋めた腕塚があり、それにちなんで周辺を「右手塚町」(うでづかちょう)と呼んでいた。また、南の山陽道の向こう側には、前述の忠度塚があり「忠度町」といった。右手塚町、忠度町は現在の天文町に当り、江戸時代は明石城東の外堀東側郭外に位置し、北から順に右手塚町、弓町、忠度町と続き、足軽組屋敷が置かれていた。
『播磨諸所随筆』(注6.)に、「一、忠度墓 足軽町有。 一、同腕塚 同」とあり、忠度塚、腕塚が足軽町にあることが記されている。
明治を迎える頃には腕塚は荒廃し野原となっていた。
明治31年(1898)、明石城一帯が皇室の御料地となったため、大正7年(1918)に明石城内に祀られていた明石神社が上の丸に遷座。それに伴い、人丸山にあった11代藩主松平直純が建てたと言われる護穀(ごこく)神社も明石神社に合祀された。この時、護穀神社の境内に祀られていた弁天社を移築し腕塚神社とした。
明石にゆかりのある作家、稲垣足穂(いながき たるほ)は著書『明石』(小山書店、1948年4月)の中で、この神社の事を「北寄りの右手塚町には『腕塚』がある。何のために(忠度塚とは)別に腕のお墓を作ったのかは、私にはいまだに判らない」と記してある。
昭和59年(1984)3月、山電電鉄の高架化工事に伴い東へ約30mほど移転、山陽電鉄人丸前駅の南にある住宅街に遷座した。
境内の由緒碑には「切り落とされた右手に怨念が残り腕や腰の痛みになやむ人々の信仰がある」(抜粋)とあり、神経痛やリューマチに霊験あらたかという話で、地元だけでなく淡路島などからも噂を聞いてお参りにやって来られる人が多いという。境内には地元の彫刻家が奉納したという木製の右腕が祀られており、これで痛い所や悪い所、怪我をした所を撫でると治ると言われている。腕塚に病気平癒を祈る風習は古くよりあったと言われ、往時は石を積み上げて祈願していたという。同様に駒ヶ林の腕塚堂(兵庫県神戸市長田区駒ケ林町4丁目5)にも石を持ち込む習慣があったという。
毎年3月の第1日曜日には、謡曲「忠度」を連吟奉納して忠度の御霊を慰める祭礼が行われている。
昭和47年(1972)右手塚町、弓町、忠度町および相生町の一部などが合併し、天文町が設置される。これにより、「右手塚町」、「忠度町」の名は明石市より消滅した。天文町という名称は明石天文台に因むものであり、「右手塚」という字面、響きより子午線のまち、天文科学館のお膝元をアピールする「天文」という町名の方が良いと考えたことは想像に難くない。
旧社地から移設された石柱が境内に残されており、そこには「右手塚町内會結成記念」と、右手塚町の名前が残されている。また 地名の消滅を惜しんだ地元では「天文町右手塚自治会」として名前を残している。

忠度の遺骸を葬ったとされる所は、ここの他に、忠度が討ち取られたとされる神戸市長田区駒ヶ林町に「平忠度腕塚(腕塚堂)」、筋向かいの同区野田町に「平忠度胴塚(首塚)」、腕塚の北方に足塚(現存せず)が伝えられている。

『平家物語』巻第九「忠度最期」は、小説『平家物語 犬王の巻』(古川日出男 著)及び、同作品を原作とした劇場アニメーション『犬王』(監督 湯浅政明、2022年公開)で、犬王の作として登場した演目「腕塚」の題材となっている。

腕塚神社 : 兵庫県明石市天文町1丁目

注1. 箙(えびら) : 矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器のこと。
注2. 『海瀕舟行図』(かいひんしゅうこうず) :江戸幕府が作成した航海すの時に用いる地図。「ウデヅカ」のくだりが見受けられるのは、明治大学博物館所蔵の寛文7年(1667)成立のものと思われる。
注3. 『摂津名所地図』 :寛文7年(1667)成立。作者不詳。江戸時代に作られた尼崎から明石までの名所を描いた絵巻。
注4. 『采邑私記』(さいゆうしき):明石藩主越前松平家時代の元禄年間(1688~1704)から宝永年間(1704~1711)頃、明石藩士、太田小左衛門によって撰述された藩領地誌。
注5. 両馬川(りょうまがわ) :平忠度が岡部忠澄に追いつかれ、馬上の二人がこの川をはさんで対峙したことから「両馬川」という名前がついたと伝えられる。
注6. 『播磨諸所随筆』 :延享5年戊辰(1748年)成立。三木通誠。


参考資料 : 石田善人. 明石文化財調査団編. 新明石の史跡. あかし芸術文化センター. 1997
NHK神戸放送局編. 新 兵庫史を歩く. 神戸新聞総合出版センター, 2008
太田小左衛門. 采邑私記. 元禄年間(1688~1704)から宝永年間(1704~1711)頃
橋本海関. 明石名勝古事談. 中央印刷株式会社出版部, 1974
春木一夫. 兵庫史の謎. 神戸新聞出版センター, 1978
平凡社地方資料センター編. 今井林太郎監修. 兵庫県の地名 II. 平凡社, 1999
太田小左衛門. ”采邑私記”(元禄の末(1700年代初頭)).  東京国立博物館デジタルライブラリー. https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/3204;jsessionid=2AACAA0A8394791B46234993D7DE71C9, (参照 2024-02-15).
腕塚神社由緒碑 碑文 ほか

2024.02.15 ジオシティーズ掲載分を加筆再編集して新規掲載

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