ぜ ん ど う じ の か い か
善導寺の怪火


岩櫃城址 上州原町(現 群馬県吾妻郡東吾妻町)に岩櫃山という名の櫃のような形をした岩山がある。
かつてこの山頂には岩櫃城(いわびつじょう、飯櫃城とも)という城がある。
建久3年(1192)、源頼朝が当地で巻狩りを行った折、高嶺山が櫃に似ていることから「岩櫃山」と名付け、守るに易く攻めるに難し要害の地であると、供をしていた吾妻太郎助亮にここに城を築くことを薦めたことに始まると言われている。
代々吾妻氏の居城となり、関東管領上杉氏に仕えた郷士、吾妻氏第五代当主吾妻太郎(吾妻太郎大掾藤原行盛朝臣)がここに拠っていた。
その頃、隣国信州の真田幸隆がこの吾妻太郎の治める西上州を手中に収めたいと虎視眈々と狙っていた。そこで、上杉氏と敵対している武田信玄に岩櫃城攻略の話を持ちかけた。
永禄6年(1563)、武田信玄率いる軍勢が岩櫃城下に押し寄せた。しかし、岩櫃城は天然の要害、武田軍が幾度か攻撃を試みるも一向に城は落ちない。
そこで一計を案じた信玄は土地の事に詳しい真田幸隆、海野長門守らに、城は険しい山上に有るので水の手を断てば容易く降伏してくるであろうと指示した。
周囲を三千の武田勢に包囲され、水の手を断たれた岩櫃城であったが、幾日経っても城中に変わった様子は見られない。そこで不審に思った信玄は岩櫃山麓に建つ善導寺の住持を呼び、城について何か知らぬかと問いただした。
善導寺は貞治年間(1362~1368)に城主吾妻太郎が一族を弔うため建立したと言われる吾妻氏の菩提寺である。(注1.)
脅された住持は城に秘密の水源が有ることを話してしまう。
かくして、信玄に水の手を断たれた岩櫃城は落城してしまった。この時、城主吾妻太郎は一族郎党を集め、老人婦女子を裏山伝いに逃し、城に火を放つと城に残った者達は一人残らず討って出て果てて行った。
燃え盛る城中で吾妻太郎は自刃。この時、水源を断たれたのは善導寺の者が裏切ったに違いないと、その腸(はらわた)を掴むと善導寺目掛けて投げつけ息絶えた。

それから間も無くのこと、善導寺は原因不明の火事に遭い焼失してしまう。
吾妻太郎の無念の思いはそれだけでは済まなかった。その後、善導寺は何度再建しても、堂宇が完成すると必ず原因不明の怪火にみまわれた。
記録に残っているだけでも、関ケ原の合戦の前年に当たる慶長4年(1599)、江戸時代に入って寛文3年(1663)、享和3年(1803)、天保8年(1837)、そして明治35年(1902)と5度の火災に見舞われている。
いずれも火災の原因は不明で、「鳥が火のついた物をくわえて飛んできた」、「火の玉が飛び込んでいった」といった怪しげな噂が立つばかりであった。明治の大火の時も「本堂から火の玉がいくつも落ちてきたと思ったら、手の着けようもない猛火となった」という話が伝わっているという。
人々はこれは無念の最後を遂げた吾妻太郎の祟りだと恐れ、寺では堂宇の工事を最後まで行わず、未完成のままで置いておくことにした。そして、一堂を建立し吾妻太郎の霊を弔ったという。以来、寺は怪火にみまわれる事はなくなった。
善導寺の境内から少し離れた所には「吾妻太郎一族諸霊追善碑」がひっそりと立っている。

伝説では落城した時の城主は吾妻太郎で、その怨念により善導寺は度々怪火に見舞われたという事になっているが、武田勢に攻められ落城した時の城主は、吾妻太郎(行盛)の子、斎藤憲行(秋間斎藤氏の養子となり斎藤を称する)の五代の裔、斎藤憲広であったという。
吾妻太郎(行盛)が城主の時にも落城していることが史書に見え、南北朝時代の貞和5年(1349)、碓氷の里見義時親子に攻められ、この時も長期戦の末に善導寺の僧が水の手を敵に教えたため、水源を絶たれた落城したという話もある。
もはやこれまでと悟った吾妻太郎は立石河原で自害。この時、自らの首を引っ掴み川の向こう岸目掛けて投げつけたとされ、そこは後に「首宮」と呼ばれるようになったという。胴体は鳥頭神社(とっとうじんじゃ)に祀られたという。

岩櫃城址:群馬県吾妻郡東吾妻町 岩櫃山
善 導 寺:群馬県吾妻郡東吾妻町大字原町1084
鳥頭神社:群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉899

注1. 善導寺については、貞治年間(1362~1368)に岩櫃城主斎藤氏の家老、秋間備前守が創建したとする説もあるが、当時の城主は吾妻氏であったと思われる。

2022.10.11 一部追記

参考資料 : 加沢平次左衛門. 加沢記(加沢平次左衛門覚書) 巻之一 岩櫃城由来之事並吾妻太郎殿附吾妻三家之事
東吾妻町・東我妻観光協会. 真田氏上州の拠点 岩櫃城跡.

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