あ ま さ し の わ け じ ん じ ゃ
天佐自能和氣神社


天佐自能和気神社 天佐自能和気神社(あまさしのわけじんじゃ)(注1.)は徳島県に一社といい、『阿波国式社略考』、『阿府志』は当社を『延喜式神名帳』にみえる「阿波国名方郡 天佐自能和氣神社」に比定している。創祀年代は詳らかでない。
当初、孝霊天皇の皇子である日子刺肩別尊(ひこさしかたわけのみこと)一座を祀っていた。後にその母である意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)を勧請し、更に神皇産霊尊(かみむすびのいこと)と高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を配祀したと伝わる。
意富夜麻登玖迩阿礼比売命の父は、和知津美命(わちつみのみこと)といい、和知津美命が淡路御井宮(淡道之御井宮)に座したため、日子刺肩別命を淡路に近い、阿波の国高崎の地に奉斎したという。
『阿府志』は、「天佐自」(アマサシ)の音が、当時の鎮座地「高崎(タカサキ)村和気」と似ていることを根拠として挙げている。
社伝によれば、その昔、鮎喰川(あくいがわ)の上流より流れ着き(一説には洪水で流されてきたとも伝える)、光徳寺に祀られたと伝える。鮎喰川上流の徳島市神山町高根の南西には高城山という山がある。そのため「高木権現」とも呼ばれている。往時は光徳寺という寺院と並んで鎮座していたらしく、今でも「光徳寺さん」とも呼ばれているという。
当社の東南700mほどの所に、阿波西国三十三観音霊場4番札所の光徳寺があり、ここのことかと思われる。
『阿府志』に見える鎮座地「阿波の国高崎」「高崎(タカサキ)村和気」と、社伝にある「徳島市神山町高根の南西にある高城山」については考察が必要と思われる。
簡単にしか調べられていないが、県内に「高崎村和気」という地名を見付けることが出来なかった。県内には、高崎山(阿南市見能林町)、高崎神社(三好市山城町西宇)、脇町(美馬市脇町)などの名は見受けられるが、地理的に無関係と思われる。
「神山町高根の南西にある高城山」については、「高木権現」の名の由来とされることから、高城山を「タカギ-」あるいは「タカキ-」と読むものかと思われるが、それらしき山は周辺には見当たらない。ただ、神山町高根の南西には「高根山」(こうねやま、標高1,312m)という山ならある。「高根山」を「高城山」と書き誤ったのだろうか。
(徳島のほぼ中央に高城山という山があるが、神山町高根の南西と表現するにはあまりに離れている気がする。)

古老の言い伝えによると、古くからの慣習で、当社の例祭の後、2日間は誰も参拝してはいけないといわれていた。ところが、旧別当(元役人であろうか)がこの禁を犯し、例祭の翌日に参拝したところ、たちまち病を患い、遂には帰らぬ人となった。
今も(当時)例祭が行なわれた後、社殿にしめ縄を巡らし3日間は誰も参拝出来ない様にしていたという。

現在の社地に遷座されるまで、当社は吉野川の傍に建っていた。吉野川は日本三大暴れ川のひとつに数えられるほど洪水や水害を度々もたらしていた。ひとたび洪水が起こると上流より押し寄せた濁流は当社の北で深い淵のようになり濁流が渦を巻くような有様で、そのたびに人々は恐れ戦いていた。 しかし、当社は盤石の上に建つがごとく微動だにせず、社殿から御神楽の音を発し水を治めたと伝えられる。
『名神序頌』には「旧号を高木権現と云ふ 洪水ある毎に鼓聲祠中に鳴る。遠近之を聞くこと一の如し、乃ち横流の災なし、人心以て安んじ土人之を竜神と謂ふ」と記されている。
明治32年(1899)、未曾有の洪水があったが、氏子が一心に神の加護を念じると、社殿から御神楽の音が高く鳴り響き、たちまち水が治まったと伝わっている。
大正元年(1912)9月の大暴風で吉野川が氾濫、多くの犠牲者を出す惨事となった。これを機に、復旧作業として吉野川改修工事が行われることとなり、大正11年(1922)11月、南に1kmほどの所に遷座され、旧社地は吉野川の川底になっている。
昭和44年(1969)9月23日、火災に遭い社殿が焼失。氏子たちが神社の再建を願い奉賛会を結成し神社の再建に努めた結果、県内外から1,500万円の浄財が集り、翌45年(1970)現在の鉄筋造りの社殿が完成した。

一時話題となった“邪馬台国阿波説”によると、天佐自能和氣神社は“邪馬台国阿波説”を傍証する遺跡の一つと言われている。
それによれば、卑弥呼とは“日の巫女”であり、大日霊女命(おおひるめのみこと、天照大神)のことであるとしたうえで、『魏志倭人伝』(「魏書」第30巻 烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条)の卑弥呼について述べられた「唯だ男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入りす」というくだりは、『古事記』の「ここに高御産巣日神(=高皇産霊尊)天照大神の命をもちて」を指すものとしている。
卑弥呼の身の回りの世話をし、卑弥呼の託宣を人々に伝えていた「男弟」こそが、この当社の祭神である高皇産霊尊なのだという。

余談だが、日子刺肩別命の姉の夜麻登登母母曾毘売命(倭迹迹日百襲姫命、やまとととひももそひめのみこと)は箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)の被葬者とされ、卑弥呼に比定される人物である。夜麻登登母母曾毘売命の弟、大吉備津日子命は吉備を平定した桃太郎のモデルになった人物とされる。

天佐自能和氣神社 : 徳島県徳島市不動東町4丁目569-1 

注1. 天佐自能和気神社の社名については様々な表記がされており、『式内社調査報告』には「あまさしのわけ-」、『徳島県神社誌』には、「あめのさしのわけ-」、『日本歴史地名大系』には「あめのさじのわけ-」となっている。

参考資料 : 『徳島県神社誌』 徳島県神社庁教化委員会 編 徳島県神社庁 発行 (2019)
『日本歴史地名大系』 平凡社 発行 (1979~2004)
『邪馬壱国は阿波だった : 魏志倭人伝と古事記との一致』 古代阿波研究会 編 新人物往来社 発行 (1976) ほか


2021.02.04 再編集

2022.10.12 加筆再編集