べんけいのあしあと
弁慶の足跡

(跡部の石仏)


跡部の石仏 一の谷の逆落としで有名な一の谷の合戦の前年の寿永二年(1183)、源義経率いる一万騎が加東郡三草山に布陣する平資盛以下七千余騎を急襲、平氏勢は総崩れとなった。大将平資盛、平有盛は本拠福原には戻らず高砂より船で屋島に逃れ、平師盛、平内兵衛清家は三木を縦走し、辛うじて一の谷に逃れ戦況を報告したといわれる。義経勢はその後を追い三木を経て鵯越へと向った。

義経が行軍したといわれる各地には様々な伝説が残っている。
そんな数ある伝説の中でも、兵庫県三木市に伝わる「弁慶の足跡」は大きな岩に弁慶が踏み締めた時に出来た足跡が残ったものと言われ、怪力の大男だったという弁慶をよく象徴していて面白い。
その弁慶の足跡が今も残っていると聞き、三木市を訪ねてみることにした。

木製の案内板をたよりに跡部の集落の中を進んで行くと次第に道は細くなり、やがて田圃の中の畦道となる。さらに畦道を暫く進んで行くと、やがて六ケ井堰の近く、畦道の傍に説明板とともに大きな石が二つ見えてくる。それぞれ二つの大きな石の表面には仁王尊が彫られており、そのうちの一つの裏側に約30cm程の大きな人の足跡のような窪みがある。『三木市の史跡と神社仏閣』によれば、石の大きさは厚さ30cm、長さ1m40cm、横1m80cmとある。
弁慶の足跡と言われる窪み これが「弁慶の足跡」と伝えられている。自然の造型とはいえそれぞれの指らしき窪みもあり、幾分踵(かかと)の方が細すぎるようには思うが、そう言われると足跡に見えるから不思議だ。
何とも途方も無い伝説だが、義経の三木進軍に跡部という地名も手伝って、仁王尊の背後にある窪みにこのような伝説がつけられたのだろう。

『播州三木城地図』によると、当地には三木城主別所氏の菩提寺、清宝山常蓮寺という伽藍が描かれており、その山門がこの辺りにあったと考えらる。そこにこの石造仁王尊が立っていたようである。前述の古絵図には仁王尊の全身が描かれており、天正年間の兵火や美嚢川の氾濫などで途中から折れてしまい、現在の様な姿になった物と思われる。
三木市の設置した解説板の最期には、「※別所町和田の古墳群には「弁慶の弁当」といわれる石もあります。」と記されている。
これは、弁慶が弁当を食べている時に飯の中に紛れ込んでいた小石をはじき出したものと言われ、古墳の石といわれている。

伝承地 : 兵庫県三木市跡部(あとべ)

参考資料 : 『三木市の史跡と神社仏閣』 福本錦嶺 著 三木市老人会連合 発行 (1989)
現地解説板(三木市 設置)ほか