ちゃわんやのむすめ
茶碗屋の娘


茶碗屋の墓碑 明石の里謡に「明石樽屋町 茶碗屋の娘 きりょうが一番 姿が二番」というのがある。
明石城の城下町、樽屋町に明石屋という茶碗問屋があった。その明石屋の主人、谷屋茂兵衛にはお糸という小町娘がいた。
お糸は器量一番と評判の美人であったため、その評判は時の明石城主、松平若狭守直明(明石藩8代藩主)の耳にも入り、早速茂兵衛のもとに直明から「お召」の使いが来た。
『土芥寇讎記』によれば、松平直明は一時期美女を多数集めて歌舞を好んでいたとあり、また「主将の器に非ず」ともされている。
お糸には瀬戸屋の息子の喜助という許嫁がいたため、お糸はこの直明の申し入れを断った。すると、お糸のことが諦めきれない直明は喜助を手打ちにせよと家来に命じた。
そこでお糸は泣く泣くお城に上がったのだが、その夜、ひそかにお城を抜け出し、「いっそこの身が無ければ…」と明石の浜(明石川とも)に身を投げたと伝えられる。
今もお糸が身を投げたと伝えられる川尻には常夜灯がひっそりと立っている。
そして、お糸の死後、播州路では「一に高松、二に津山、三に明石がなければよい」という時の権力者の横暴を風刺した俗謡が流行ったという。

『大蔵谷史』では、この話に登場する殿様(明石城主)は本多出雲守政利(明石藩7代藩主)であったと伝え、政利はお糸の祟りで狂死したと伝えている。
史実に見える本多政利は、苛政を強いた罪や巡見使に対する不作法により、天和2年(1682)2月、陸奥国大久保藩(岩瀬藩)に1万石に減封の上転封となった。さらに、侍女の殺害や領民に過剰な使役を科すなどの不行状が幕府の知るところとなり、元禄6年(1693)6月に除封となり、出羽国庄内藩主、酒井忠真の預かりとなる。しかし、ここでも政利の粗暴な振る舞いは治まることは無く、家臣に暴力を振るうなど問題行動が多く、その行状は死にも当たるとされたが、狂気の沙汰として減免され、元禄15年(1702)7月、三河国岡崎藩主、水野忠之の預かりに変えられ、岡崎城の一室に幽閉。宝永4年(1707)12月8日、同地で死去している。

この谷屋茂兵衛なる人は文政元年(1818)頃、太山寺の開発村(現 神戸市西区伊川谷町前開付近)の出で、明石樽屋町で瀬戸物問屋を開いていたらしい。商売上手だったらしく、店はたちまちのうちに大店になったと伝える。
この茂兵衛、狂歌を作るのが好きで、商売の宣伝のためこの『茶碗屋の娘』の話を創作。店先に張り出し、うちの瀬戸物は器量が一番姿が二番だと言ったのだという。
『明石名勝古事談』には、茂兵衛にはお糸という娘は居なかったと記してある。

戦後間もなく、樽屋町の陶器店の店主の高尾功という人が船上町の密蔵院の墓地に「茶碗屋」と彫られた墓碑があるのを見付け、住職に頼み無縁墓となっていたこの墓の供養を頼まれた。陶器店の店主が茶碗屋の墓碑を見付けるというのも何か不思議な巡り合わせを感じてしまう。
実話であったのか、茂兵衛の創作であったのか、真偽の程は詳らかではないが、時を経た今も樽屋町の名は残り、密蔵院の墓地には茶碗屋の墓碑がひっそりと佇んでいる。

伝 承 地:兵庫県明石市樽屋町
茶碗屋の墓碑:兵庫県明石市船上町3-8 密蔵院

参考資料 : 『明石名勝古事談』 橋本海関 著 中央印刷株式会社出版部 発行 (1974)
『あかし昔ばなし』 神戸新聞明石総局 編 明石文庫の会 発行 (1978)
『今はむかし、伝説紀行 ビジュアル・ブックス 6』 ビジュアルブックス編集委員会 編 神戸新聞総合出版センター 発行 (2004) ほか


2022.10.13 加筆再編集