明石の里謡に「明石樽屋町 茶碗屋の娘 きりょうが一番 姿が二番」というのがある。明石城の城下町、樽屋町に明石屋という茶碗問屋があった。その明石屋の主人、谷屋茂兵衛にはお糸という小町娘がいた。 お糸は器量一番と評判の美人であったため、その評判は時の明石城主、松平若狭守直明(明石藩8代藩主)の耳にも入り、早速茂兵衛のもとに直明から「お召」の使いが来た。 『土芥寇讎記』によれば、松平直明は一時期美女を多数集めて歌舞を好んでいたとあり、また「主将の器に非ず」ともされている。 お糸には瀬戸屋の息子の喜助という許嫁がいたため、お糸はこの直明の申し入れを断った。すると、お糸のことが諦めきれない直明は喜助を手打ちにせよと家来に命じた。 そこでお糸は泣く泣くお城に上がったのだが、その夜、ひそかにお城を抜け出し、「いっそこの身が無ければ…」と明石の浜(明石川とも)に身を投げたと伝えられる。 今もお糸が身を投げたと伝えられる川尻には常夜灯がひっそりと立っている。 そして、お糸の死後、播州路では「一に高松、二に津山、三に明石がなければよい」という時の権力者の横暴を風刺した俗謡が流行ったという。
『大蔵谷史』では、この話に登場する殿様(明石城主)は本多出雲守政利(明石藩7代藩主)であったと伝え、政利はお糸の祟りで狂死したと伝えている。
この谷屋茂兵衛なる人は文政元年(1818)頃、太山寺の開発村(現 神戸市西区伊川谷町前開付近)の出で、明石樽屋町で瀬戸物問屋を開いていたらしい。商売上手だったらしく、店はたちまちのうちに大店になったと伝える。
戦後間もなく、樽屋町の陶器店の店主の高尾功という人が船上町の密蔵院の墓地に「茶碗屋」と彫られた墓碑があるのを見付け、住職に頼み無縁墓となっていたこの墓の供養を頼まれた。陶器店の店主が茶碗屋の墓碑を見付けるというのも何か不思議な巡り合わせを感じてしまう。
2022.10.13 加筆再編集 |