は じ か む ら
波自賀村


波自賀村 市川の左岸に広がる市川町屋形の北部に「初鹿野」(はしかの)という小字があり、集落の背後に聳える三角形の山は初鹿野山と呼ばれている。
「初鹿野」という地名は『播磨国風土記』の神前郡(かんざきのこおり)、堲岡里(はにおかのさと)の条に記された大汝命(おおなむちのみこと)(注.1)と小比古尼命(すくなひこねのみこと)(注.2)の二柱の神の我慢比べの伝説に由来している。

神代の昔の話、大汝命と小比古尼命の二柱の神がいた。二神は協力して国造りを行ったと言われている。大汝命は体が大きく力持ちの神、小比古尼命は体は小さいが、機敏で忍耐強いとも、悪童的な性格を持っている神とも言われている。

その昔、大汝命と小比古尼命の二柱の神が堲(はに)(注.3)の荷物を担いで遠くへ行くのと、屎(くそ)をしないで遠くまで行くのとではどちらがより遠くへ行けるかを争うことになった。
大汝命は屎をしないで行くと言い、ならばと小比古尼命は堲の荷物を担いで行くと言った。二柱の神は互いに譲らぬまま歩み続け、数日が経った時の事だった。大汝命が「我はいきあへず」(自分はもうだめだ)と言って座って用を足した。それを見た小此古尼命は笑いながら「然苦し」(自分も苦しい)と言って、担いでいた堲の荷物を丘に擲(なげう)った。
そのような事があって、小比古尼命が堲の荷物を擲った場所を「堲岡」(はにおか、埴岡)と呼び、大汝命が用を足した時、小竹が屎を弾いて衣についたため、その場所が「波自賀(はじか)の村」と呼ばれるようになったとある。
「波自賀」(はじか)という地名が「初鹿野」(はしかの)と書き表されるようになったことについて、狩りに来た応神天皇が当地へ来た時に初めて鹿を見付けたことによると『ふるさと「やかた」の歴史』にあるとされるが、その話が何に基づいて書かれたかについては定かではない。
(『播磨国風土記』の神前郡川辺里の条には、品太天皇(応神天皇)が川辺里の勢賀で狩を行ったとの記述が見受けられる。)

『播磨国風土記』には、この時の堲と屎は石に成って今も残っていると記されている。
神河町比延(ひえ)の日吉神社の辺りは「堲岡の里」の伝承地と言われ、日吉神社の社殿の裏山の中腹には小比古尼命が擲った堲が石になったと言われる「堲の大岩」が祀られている。
また、ある人が言うには、品太天皇(応神天皇)が巡行した時に、この岡に宮を造って「この土は堲にしか使えないな」と言ったので堲岡と名付けられたともいう。

『播磨国風土記』 原文
堲岡里。生野、大川内、湯川、粟鹿、川内、波自加村。土下々。所三以号二堲岡一者。昔、大汝命与二小比古尼命一。相爭云。擔堲荷而遠行。与不レ下レ屎而遠行。此二事何能為乎。大汝命曰、我不レ下レ屎欲レ行。小比古尼命曰、我持二堲荷一欲レ行。如レ是相爭而行之遥二數日一。大汝命云、我不レ能二忍行一。即坐而下レ屎之。爾時小比古尼命咲曰然苦。亦擲二其堲於此岡一。故号二堲岡一。又下一。屎之時一、小竹彈上、其屎行二於衣一。故号二波自賀村一。其堲与レ屎成レ石。于レ今不レ亡。一家云、品太天皇巡行之時、造二宮於此岡一。勅云土為レ堲耳。故曰二堲岡一。
(※ 異体字は正字に書き換え。レ点、一二点、句読点を追加)

伝承地 : 兵庫県神崎郡市川町屋形

注1. 大己貴命(大穴牟遅神、大国主神)の『播磨国風土記』での表記。
注2. 少彦名命(少名毘古那神)の『播磨国風土記』での表記。
注3. 埴、黄赤色の粘土


参考資料 : 『播磨国風土記』 古典保存会 発行 (1926)
現地解説板 ほか