ひ み こ の は か
卑弥呼の墓


卑弥呼の墓? 数ある邪馬台国論争の中に「邪馬台国は阿波だった」という邪馬台国阿波説がある。
詳細については割愛するが、堀川豊平氏らがメンバーとなっている郷土史家の研究グループ「古代阿波研究会」は卑弥呼は大日靈女命(おおひるめのみこと、天照大神の異称)であるとして(後述)、邪馬台国の女王卑弥呼の陵墓は、徳島市の気延山(矢野神山、標高212.3m)南陵の杉尾山(標高120m)に鎮座する天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)にあるとしている。
天石門別八倉比賣神社は気延山をご神体とし、山や岩、木に神が宿るとする古代信仰の形を今に伝えている。
この気延山には200基近い古墳がある(八倉比売神社古墳群・気延山古墳群)。

天石門別八倉比賣神社はもともとは気延山の山頂に鎮座していたと伝え、『天石門別八倉比賣大神御本記』によると、「小治田御宇元年龝八月」(推古元年(593)秋8月)、八倉乃日靈大神(天石門別八倉比賣神社の祭神、大日靈女命)は毛原美曽持(けはらみそもち)に、私の宮がある場所は遥かに高く険しい。そのため、神主や祝部(はふりべ)(注1.)、巫女らが参詣するのに疲れてしまうだろう。そこで、杉の小山(杉尾山)は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもなく正に良い場所である。そのため、この嶺に遷座することにしよう、と伝えられた。それにより、現在の場所に遷座されたという。
この時、八倉乃日靈大神は天より持ってきた「瑞の赤珠の印璽」(みずのあかたまのしるし)を、杉の小山(杉尾山)の嶺に深く埋めて、天の赭(あめのあかつち)で覆い納めた。
八倉乃日靈大神は、その赭(あかつち)(注2.)は、諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじの)う奇妙なる験(しるし)であると教え諭したという。

邪馬台国阿波説によると、『天石門別八倉比賣大神御本記』に基づき、卑弥呼とは“日の巫女”であり、天石門別八倉比賣神社の祭神大日靈女命のことであるとし、「瑞の赤珠の印璽」こそが漢の皇帝が委奴国王に与えた「漢委奴国王印」(金印)であるとしている。
江戸時代になり、前方後円墳(八倉比売神社1号墳)の前方部を削り本殿が造営され、後円部が奥の院とされた。
邪馬台国阿波説によると、この古墳こそが卑弥呼の陵墓と説いている。
天石門別八倉比賣神社に伝わる古文書(注3.)には「神陵の経は百余歩(約 150m)」と記されているといわれ、『魏志倭人伝』(『三国志』の中の「魏書」第30巻 烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条(わじんのじょう))に見える卑弥呼の墓について書かれた「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」(読み下し:「卑弥呼、以って死す。大いなる冢(ちょう)を作る。径、百余歩。殉葬さるる者、奴婢(ぬひ)百余人。」、訳:「そして卑弥呼が死んだ。大きな塚(古墳)を造った。直径(注4.)は百歩あまり。奴隷(下男、下女)ら百人ほどが殉死させられた。」)と一致するとしている。
後円部の直径は約35m、頂上部には阿波青石(緑泥片岩)の木口積で作られた高さ約50cm、一辺2.5mの正五角形の祭壇(磐座)が築かれている。祭壇の上には祭壇と同じ阿波青石で作られた祠があり、中には永遠の生命を象徴するという砂岩製の鶴石亀石(陰陽石)を組み合せた「つるぎ石」が祀られている。
八倉比売神社古墳群の宮谷古墳からは「三角縁神獣鏡」(さんかくぶちしんじゅうきょう / さんかくえんしんじゅうきょう)が三面出土している。『魏志倭人伝』には倭国の女王、卑弥呼が魏に使いを送って、西暦240年、魏の皇帝から銅鏡100枚を賜ったという記述があり、これこそは魏から卑弥呼が賜わった銅鏡の一部であると説いている。

他に類を見ない特徴的なこの祭壇は、イスラエル系渡来人が築いた古代ユダヤ教の祭祀場ではないかという説などもある。
2004年から2007年まで駐日イスラエル大使を務め、現在アリエル大学学長であるエリヤフ・“エリ”・コーヘン(Eli-Eliyahu Cohen)氏が平成19年(2007)1月9日に二度目の徳島視察をした時、ユダヤ人が徳島に辿り着いたと思われる史跡がいくつかあると語っており、美馬市(徳島市)が発行する『広報みま』(平成19年2月号)に、当時駐日イスラエル大使であったコーヘン氏が市役所を訪れた後、同市の神明神社(美馬市穴吹町口山字宮内)の磐境(いわさか、石積み遺構)を視察した記事が掲載されている。
コーヘン氏は神明神社の磐境を見て、その形や大きさがイスラエル南部の古代都市テル・アラッド(Tel Arad)の神殿跡に似ていることに驚愕、これこそは正に古代イスラエルの礼拝所であると感じたといわれている。
そして、神明神社の磐境と同じく、卑弥呼の墓の上に築かれた祭壇をはじめとし八倉比売神社の奥の院全体は古代ユダヤの石積みの祭殿とその構造が非常に良く似ているとしている。
他にも、朝鮮半島から伝わった支石墓(ドルメン[Dolmen])の影響をうけたとする説もある。支石墓というと数個の支石の上に巨大な天井石を載せたいわば石の机の様な姿が思い起こされるかもしれないが、元来、小石などにより覆われていた(ケルン[Cairn]=石積の塚) 、ケルン状墳墓)。現在見られる支石墓の多くはそれらが風雨により流され、巨石が露出してしまった姿である。

五角形の祭壇は天照大神(大日靈女命)、大国主神(大己貴命)、少名毘古那神(少彦名命)、埴安媛命、宇迦之御魂神(倉稲魂命)の五神を表すとも言われている。五角形の頂点に天照大神(=邪馬台国阿波説でいうところの卑弥呼)が鎮座すると言われ(後述)、五角形の祭壇はここが卑弥呼の墓であることを物語っているという。
徳島にはこのような五角形の祭壇が2000基以上もあると書いてあるものも見受けられるが、私が知る限りこの天石門別八倉比賣神社の古墳上に築かれた祭壇以外は知らない。恐らくは、後述の地神塔のことを誤解したものと思われ、これらの地神塔(と地神祠)は徳島県内だけで2000を超えると言われている。
参考までに書くと、徳島県内には五角形の石柱に天照皇大神を正面として、大己貴命、少彦名命、埴安媛命、稲倉魂命(地域などにより並び順、表記に差異あり)の五神の名を刻んだ地神塔、地神さん(地神碑、五神塔、社日塔、社日、社日さん、五神名地神塔 とも)と呼ばれる石塔が数多くある。
寛政元年(1790)或いは寛政2年(1791)、徳島城下富田八幡宮の祠官早雲古宝(ふるとみ、諱は高宝(たかとみ)、早雲伯耆)が京都の戯作者、大江文坡(ぶんぱ)(大江匡弼(まさすけ))の著した『春秋社日醮儀』(しゅんじゅうしゃじつしょうぎ、天明元年 (1781))に基づき、第10代阿波藩主、蜂須賀治昭に各村に地神祠を奉斎するよう進言したことに始まると言われている。(当時、淡路も阿波藩の所領であったので、淡路にも同じようにお触れが出ていた。)春秋の2回、庄屋が斎主となって五穀豊穣を祈願した。
この地神塔は徳島県、淡路島はもとより、香川県東部、岡山県南部に多く見受けられ、神奈川県、埼玉県、千葉県、北海道などにも散在している。

余談になるが、徳島県内には「卑弥呼の墓」とされる場所がここを含め2~3箇所あるという話もある。
それによると、ひとつはここ天石門別八倉比賣神社、そして卑弥呼の居城にして阿波邪馬台国の中心とされる高根悲願寺(名西郡神山町神領字高根)、具体的な場所は定かではないが剣山や木屋平村(こやだいらむら、美馬市木屋平)などにあるという。
高根悲願寺が建立される以前はここに山神社があり、巫女が神(天照大神)を祀っていたと云われている。邪馬台国阿波説によれば、この巫女こそが卑弥呼であり、古代この一帯は卑弥呼の居城(高根山城、卑弥呼の大山城)であったと説いている。
生憎、剣山と卑弥呼にどのような関連があるの私は知らないが、剣山には古代イスラエルのソロモン王の秘宝が隠されているという噂がある。空海が剣山に眠るソロモン王の秘宝を守るために四国に88箇所の結界(四国八十八ヶ所霊場)を張ったという話もある。奇しくも前述の卑弥呼の墓の五角形の祭壇や神明神社の磐境だけでなく、ここでも古代イスラエルとの関係が登場する。
木屋平村と卑弥呼についてもどのような関連があるのかについては私は知らないが、木屋平村には大嘗祭(天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀)で悠紀殿と主基殿に供える麻の織物「麁服」(あらたえ)を納める阿波忌部氏の直系三木家があり、こちらは天皇家との繋がりが語られている。


天石門別八倉比賣神社 : 徳島県徳島市国府町矢野531 

注1. 祝部(はふりべ、ほうりべ) : 神主、禰宜(ねぎ)の次位にあって神に仕える者。
注2. 赭(あかつち) : 赤土。上代、顔料などに用いられた。
注3. 詳細不明、要出典。
注3. 「径」は一般には「直径」と解釈されているが「円周の長さ」とする解釈もある。


参考資料 : 『邪馬壱国は阿波だった : 魏志倭人伝と古事記との一致』 古代阿波研究会 編 新人物往来社 発行 (1976)
awa-otoko. ”矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫(うつし)から…”.  awa-otoko’s blog. 2016-09-27, https://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/09/27/213429, (参照 【2024-02-03】).
阜嵐健. ”天石門別八倉比売神社(【御本記】、【天石門別八倉比賣大神御本記】、【訳文】)”.  延喜式神社の調査. http://engishiki.org/awa2/bun/awh560501-01-s.html, (参照 2024-02-03).
美馬市. ”地域レポート ~イスラエル駐日大使が神明神社などを視察~”.  広報みま №24 2月号. 2007-02-08(発行), https://www.city.mima.lg.jp/fs/1/0/9/0/2/0/_/h19_02.pdf, (参照 2024-02-03).


2022.10.19 加筆再編集
2024.01.30 加筆再編集
2024.02.03 加筆再編集