
兵庫県道279号森大屋線が兵庫県道6号養父宍粟線と交差する所、御井神社の案内標識と向かい合うようにして一段高くなった石垣の上に大きな自然石の碑が二つ立っている。傍らには「都石塚建立の由来」と書かれた解説板が立っている。
当地方出身の横綱、都石の名を後世に伝えるべく世話人と門弟達が建てたものだ。
江戸時代より大正末期頃にかけて、地方相撲が盛んとなり東に江戸相撲(後の東京相撲)、西に大坂相撲という大きな興行組織が存在した。
明治時代の初め頃、当地にも相撲組があり、この村に横綱都石(本名、坂本善蔵)が親方を務める都石組という相撲組があった。親方を務める都石は小さい頃から大の相撲好きで、頭突き、張手を得意とし、地元の祭や地方場所で勝ち進み、横綱にまで上り詰めた後、親方として多くの門弟の育成に力を注いできた。
その門弟の一人に、大源兵工(本名、寺尾源兵工)という大きな体の割りに大変気の小さい男がいた。都石は、源兵工に自分の得意技である頭突き、張手を教え、嵐山という四股名を与えた。この嵐山(大源兵工)は地方相撲の大関になるまでに成長した。しかし、生来の大男であった嵐山が繰り出す張手の力は凄まじく、これまでに幾度となく相手の肋骨を折ってしまうこともあった。
悩んだ末、親方都石は嵐山に張手を使わぬようにと封じてしまったという。
都石は大柄な者には大技を、また、弟子の一心(本名、三方清太郎)、宮の川(本名、三方喜兵治)のように小柄な者には小技をと、それぞれの個性を生かし多くの門弟を育ててきた。
大正13年(1924)、都石の引退相撲の日、世話人、秋山音吉、太村仲蔵、竹田作治郎、門弟中らが都石の名を後世に伝えるべく「都石塚」を建立。碑文は時の臨向寺住職、貫道和尚によるもので、 石屋、荒田武雄によって刻まれたものである。
都石塚の隣には「門弟 嵐山、宮ノ川、一心」と刻まれた碑が並んで建っている。