那波港を跨ぐ相生大橋東詰の少し手前に「箆島跡」と刻まれた石碑が立っている。相生湾の北部が入り江状になった部分に那波港があり、その入口の辺り、今は地続きとなって丘のようになった突端部分はかつて竹島、または箆島(のしま)と呼ばれる小さな島だった。 縄文時代後期の相生湾は現在より海面が2~3m低く、湾には6つの島があった。現在は笠松島以外は地続きとなっている。 その昔、神功皇后が新羅に侵攻した時、那波浦は中国鎮護のための水軍の要港として使われていた。 この時、神功皇后は第三陣先鋒を務める伊予水軍の将帥、小千宿禰(おちのすくね)三並に命じて、箆島に生える矢竹で箭(注1.)を作ったという伝説が残されている。 後の元禄年間(1688~1704)には、赤穂四十七士の頭領大石内蔵助良雄もこの島の竹で矢柄(注2.)を作ったと言い伝えられる。 これらの逸話から、人々はこの島を「竹島」あるいは「箆島」と呼ぶようになった。 石碑には「箆島跡」と刻まれている。「箆」という字には「へら」という意味以外に、矢竹や矢の幹(矢柄)という意味がある。 今は相生大橋の架橋で島の中央部が削られ往時の面影は無くなっている。 箆 島 : 兵庫県相生市旭字箆島 注1. 箭(や) : 「矢」に同じ。矢竹、篠竹の意味もある。 注2. 矢柄(やがら) : 矢の幹(棒)の部分。「箆(の)」ともいう。
2022.11.08 加筆再編集 |