
国道2号線が加古川を跨ぐ加古川橋の西詰、土手下の道を川に沿うように少しばかり北に行くと民家に埋もれるように小さなお堂がある。
ブロック塀に囲まれ、アルミの門扉が設えられたその様子は民家と見間違えそうな雰囲気がある。弘法大師の祀られたそのお堂の傍らに七騎塚供養碑がある。
これは、兄、塩冶(えんや)高貞の身代わりとなって加古川の河原で討死した塩冶重貞と6人の家臣の供養のために建てられたものである。
南北朝時代の正平5年(1350)、京にいた出雲国守護塩冶判官高貞は、足利尊氏の執事、高師直(こうのもろなお)の讒言によりその命が危ぶまれる様になっていた。
その事を知った高貞は、狩に行く体を装い手勢30騎を連れ京を発ち出雲へと向かう。時を同じくして、高貞の妻も20騎に護られ高貞とは別の経路で出雲へと向った。
しかし、有ろう事か高貞の弟、貞泰がこの事を足利尊氏に密告したため高師直の手勢が高貞の後を追ってきた。
高貞は懸命に馬を走らせるが、とうとう加古川の河原にて師直勢に追い着かれてしまう。そこで、高貞の弟、六郎重貞と家臣6人がここに踏み止まり師直勢を迎え討ち、その間に高貞を出雲へと逃がした。だが衆寡敵せず、遂に7人全員は討死してしまった。
兄の身代わりとなり死んでいった弟と、主君を守り死んでいった家臣たちの亡骸を見て哀れに思った村人らはこの7人の塚を作り、懇ろに弔った。それが七騎塚の始まりと伝えられる。
しかし、河原という場所であったため、寛延2年(1749)と宝暦4年(1754)の二度の大洪水で七騎塚のほとんどは押し流され、僅かに1基を残すのみとなっていた。
その後、塚が消え行く事を惜しむ人々により一字一石塔の建立の話が持ち上がったが、途中で断念。
文化10年(1814)になって古賀精里の文、頼春水(頼山陽の父)の書による七騎塚供養碑が建立された。
この碑も元は現在の加古川橋の西詰辺りにあったものを、河川改修の折に現在の場所に移転したのだという。
対岸の称名寺(加古川町西本)境内にも、文政3年に建立された頼山陽の文と書になる七騎塚供養碑が建っている。
| 七騎塚供養碑 | :兵庫県加古川市米田町船頭(ふなもと) |
| 称 名 寺 | :兵庫県加古川市加古川町本町313 |
| 参考資料 : | 『*****』 ***** 著 ***** 発行 (****) |