南北朝の騒乱の中、都から遠く離れた播磨国の山里でひっそりと息を引き取った一人の親王がいる。名前を赤松宮陸良(くがなが、くがよし、りくなが、りくよし)親王といい、後醍醐天皇の第三皇子大塔宮(だいとうのみや、おおとうのみや)護良(もりなが、もりよし)親王の御子と伝える。 観応の擾乱で南朝の後村上天皇に対して謀反を起こした陸良親王は、正平6年(1351)頃、播磨の国主赤松則祐に奉じられて弥高山城(注1.)から伊勢山城(注2.)まで軍を進めるが、不幸にも病を患い志半ばで薨去された。 その陸良親王の亡骸が葬られた所がこの親王塚という。 しかし、親王塚の考古学的調査は行われておらず、また伝承の域を出ないことから宮内庁による陵墓の指定は受けていない。 かつては塚の付近を「親王塚垣内」、略して「親王垣内」と言ったが、明治以後は「新野」に改められた。しかし土地の人は今尚「シンノー」と呼んでいるという。
陸良親王の出自ならびに生涯については諸説あり、護良親王の皇子、興良(おきなが、おきよし)親王の弟という説もあれば、興良親王と同一人物とする説もある。 ・ 『桜雲記』(注3.)には「建武元年(1334)三月護良子陸良誕生。母源大納言師茂女」とある。 ・ 『宮下文書』(注4.)には、「萬寿王を元服せしめ(中略)興良親王と称せしむ。(中略)陸良親王と改称せしめ」とあり、楠木正成が護良親王の皇子である万寿王を保護し、三浦義勝に頼み富士谷宇津峰南城(注5.)に匿った。 万寿王は「皇国を再興すべし」との意を込めて興良親王と名乗り、常陸国平定にあたって陸良親王と改名したという事が記されている。(注6.)
・ 長崎県対馬市の陸良親王墓所の説明では、陸良親王は元治3年(1866)(注7.)に護良親王の皇子として生まれた。母は北畠親房の妹と伝える。 これらについては今後の研究、資料の発見を待ちたいと思う。
陸良親王の墓所と伝える所は、香寺町の他にも奈良県吉野郡野迫川村北股の清久寺にある「田村塚」(「田村将軍墓」)、長崎県対馬市根緒の「征夷大将軍陸良親王陵墓」などがある。
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