しょうげんづか
正 玄 塚


正玄塚 揖保川河口の西側、瀬戸内海に沿って西に走る綾部山は西日本を代表する梅の名所として知られ、梅の季節には観梅で賑わっている。梅林に比べるとあまり知られていないが、この綾部山には5世紀中期から7世紀終末期にかけての古墳が40基近く存在している。
これらは、まだ山陽道が整備されていなかった頃、瀬戸内海の海上交通に深く関与した人物(首長)達が埋葬された場所と考えられている。

休憩所(お茶屋)の前、雑木に隠れるように綾部山古墳群最大の石室を持つ「正玄塚」がある。
傍らに大きな解説板が設置されているのでそれとわかるが、解説板が無ければ見落としてしまいそうな場所にある。
正玄塚古墳は「綾部山28号墳」とも呼ばれ、古墳時代後期に築かれた円墳である。
「正玄塚」という名称は、江戸時代に記された讃岐丸亀藩の公選地誌『西讃府誌』の黒崎村條項の中に見ることができる。(注1.)
現在は墳丘が崩れ石室が露出しているが、築かれた当時は周囲を円筒埴輪で囲い、揖保川より手逓伝(たごし)(注2.)で運んだ円礫(川原の玉石)を一面に葺き盛土の流出を防いでいたと考えられる。

天井部が露出した横穴式石室は羨道の一部を除いて、ほぼ完存しており、全長10m、玄室長4.4m、幅2.2m、高さ2.8m、羨道幅1.4mの両袖式となっている。
この石室はかなり古い時代から既に露出していた様で、この石室の形状が歪みの無い四角であることから「正」、(石室が)奥深く幽(かす)かな有様から「玄」との意味を込め「正玄塚」と呼ばれたと伝えられる。

余談ではあるが、熊本県熊本市戸島町に「正玄塚」という地名がある。参考までに。

注1. 丸亀京極藩(万冶元年(1658)播磨龍野より京極高和が入封したことに始まる)は、讃岐国内五万六十七石のほか、播磨国揖保郡内の興浜村など二十九ヶ村一万石を飛地として与えられていた。
注2. 手逓伝(たごし) : 手輿(たごし)、腰輿(ようよ)。輿(こし)の一種。前後ふたりで轅(注3.)を手で腰のあたりまで持ち上げて運ぶもの。
注3. 轅(ながえ) : 輦(てぐるま)、輿(こし)、牛車(ぎっしゃ)、馬車などの乗物の箱の台の下に平行して添えた二本の長い棒。長柄(ながえ)の意。


正玄塚:兵庫県たつの市御津町黒崎 綾部山梅林内


参考資料 : 現地解説板(御津町教育委員会 設置) ほか