つ ね も と む ら
常 本 村


常本口バス停 神戸市西区平野町の北東部、明石川右岸に常本という集落がある。
古くは『慶長国絵図』(注1.)に「常本村」の名が見える。正保郷帳(注2.)では「田方九二石余 畑方三六石余、芝山あり。」とある。
江戸時代初頭、明石藩が播磨国明石郡、同美嚢郡を領すると、常本村は明石藩八組(注3.)の押部組となる。享保年間(1716~1736)に成立した明石藩領内の地誌『明石記』によると「東西一〇四間(約 189m)、南北五八間(約 105m)、人数一一二、家数一四」と記されている。
常本村は元々は常基村であったといわれ、源三位頼政の孫、常基から名付けられたという話が『明石名勝古事談』に載っている。

治承4年(1180)、平清盛による平氏政権に不満を抱く後白河法皇の第三皇子、以仁王(もちひとおう)と源頼政が平家打倒を計画。しかし計画が露見してしまい平氏の追討を受けた以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで討死してしまう。
頼政の嫡男仲綱らは以仁王を逃すべく平等院に籠り満身創痍になりながら平氏の大軍に応戦したが、衆寡敵ぜず遂に平等院釣殿で自害した。享年55歳であったといわれている。

仲綱には嫡男宗綱(宇治平等院の戦いで討死)、次男有綱(大河内氏祖、源義経の娘婿)、三男頼成(田代冠者頼成)、成綱(及川成綱、盛綱)、頼季(多田頼季、馬場頼季、伊豆頼季、頼重)、養子広綱(太田氏祖、源頼政の末子)という子がいた。(宗綱と有綱の間に「京綱」とある資料もあるが、詳しい事は分からない。)
正史には見られないが『明石名勝古事談』によると仲綱には頼若丸という子がいたという話が記されている。
宇治平等院の戦いで仲綱が討死した時、まだ二歳だった頼若丸は家臣十一人に付き添われ、播磨国明石郡の中谷市朗太夫の許に身を寄せていた。
この中谷市朗太夫という人物がどのような人物であったのか、仲綱とどのような関係にあったのかについては詳らかではなく、新出の資料が発見されることが期待される。
幼い頼若丸の育ての親となった市朗太夫は、やがて成年となった頼若丸に若丸常基と名付けた。
その後、常基は名を中谷治朗太夫と改め播磨国明石郡押部庄(現 兵庫県神戸市西区押部谷町周辺)に居を構えた。
寛元5年(1247)、治朗太夫が没すると、その子基政は明石郡平野庄黒田村(現 兵庫県神戸市西区平野町黒田)と同庄西戸田村(現 同町西戸田)の間の芦の生える荒れ地を開墾、この地に父に添ってきた家臣十一人住まわせた。そして、父の名をとって常基村と名付けた。それが後に常本村になったという。

常本村は平野庄にありながら隣村の黒田村を飛び超えて和田村(現 兵庫県神戸市西区押部谷町和田)、養田村(現 同町養田)と同じ押部庄に属していた。
天正12年(1584)7月14日、羽柴秀吉は直臣の船越景直に淡路の知行地の替地として明石郡押部庄のうち、中村、東村、黒田村、和田村と共に常本村百三十一石の知行を認めており、この頃すでに常本村は押部庄に属していたものと思われる。(『記録御用所本古文書』「羽柴秀吉判物」)
明石藩領時代も常本村は平野庄にありながら隣村の黒田村を飛び超えて和田村(現 兵庫県神戸市西区押部谷町和田)、養田村(現 同町養田)と同じ押部庄に属していた。神社も寺も押部庄の養田村と同一で、(常本村は)押部庄の住吉神社の氏子になっている。そのような理由から、常本村は養田村の分村だったのではないかともいわれている。
現在の高和小学校の横の住吉神社の御旅所に建つ一の鳥居には「寛文4年(1664)押部荘常本村住中部清左衛門尉中次」ほか三名の名前が刻まれており、中谷基政、十一人の家臣に所縁(後述)の中部清左衛門尉らの寄進によるものであることが伺われる。

明石藩第6代藩主松平日向守信之は善政を敷いたことで知られ、そのひとつとして新田開発の奨励があった。明石川流域周辺の台地上などにいくつのも新田が作られた。
『KOBE西区こんなまち 伊川谷・岩岡・押部谷・神出・玉津 櫨谷・平野、そしてニュータウン』(2017,大海一雄 著,神戸新聞出版センター 発行)には、 常本村を開拓した中谷基政と父常基(中谷治朗太夫)に付き添ってきた家臣十一人らが、明石郡山田村(現 神戸市垂水区西舞子周辺)で新田を開墾し、「日向新田」と名付けた。この功により、松平信之より中部(なかべ)姓を賜ったと記されている。
中部氏の出自について述べられた逸話と思われるが、基政が常本村を開拓したと言われるのが寛元5年(1247)、松平信之が6代藩主になったのが万治2年(1659)2月で、20年後の延宝7年(1679)10月、信之は大和郡山に転封となっている。基政が常本村を開拓した年と松平信之が藩主であった時代の間には400年以上の隔たりがある。
常本村を開拓した人々の子孫が日向新田を作ったのだろうか。
明石の中部氏の出自については、明石付近に来住した平家の落人の後裔という説もあるようだが、出典の確認が必要である。

中部氏は後に明石に移り住む。大洋漁業(現 マルハニチロ株式会社)の創設者、中部幾次郎はその子孫である。「マルハ」(創業当時、○に「は」の字のマークを用いていた)は中部幾次郎が創設した林兼(はやしかね)商店(大洋漁業の前身)の「は」に由来する。
明石公園入口には「中部幾次郎翁銅像」が建てられている。昭和3年(1928)明石市議会の議決により建立。戦時中に金属回収で供出されたが、昭和26年(1951)に明石市長を会長とする銅像再建協力会が結成され、浄財により再建された。

「『四季の風かほる里 常本』 常本里づくり計画」は、先に述べた『明石名勝古事談』の話を引用しつつも、それとは別に地形という側面から常本の地名の由来へアプローチしている。
「ツネ」は谷奥や奥を意味することから、 明石川の上流(奥)の養田村の分村という意味で常本の名が付いた、また、農業用の水源を黒田村の北にある鍋谷池に依存してたことから、 鍋谷の“奥”の水源で耕地を養うので常本の名が付いたと書かれている。

明治22年(1889)4月1日、町村制の施行により、下村、西戸田村、印路村の一部、宮前村、大畑村、福中村、向井村、芝崎村、大野村、慶明村、中津村、堅田村、繁田村、黒田村が合併し平野村が発足。平野村常本となる。
昭和22年(1947)3月1日、 平野村が神戸市(垂水区)に編入され、平野町常本となる。
昭和57年(1982)8月1日、神戸市西区の設立により、西区平野町常本となる。

「国勢調査町丁・字等別境界データ」2020年によると、平野町常本は面積 825447.297㎡、周辺長 5925.583m、人口 197、世帯数 53とある。

伝 承 地 : 兵庫県神戸市西区平野町常本
中部幾次郎翁銅像 : 兵庫県明石市明石公園1


注1. 江戸幕府は幕藩体制の確立に際し、国内の実勢把握のため、全国の諸大名の領地と寺社領の分布、石高に関する調査を行い、国絵図、郷帳の作製とその提出を諸大名に命じ、慶長、正保、元禄、天保の四度にわたりこれを実施した。
慶長国絵図は慶長9年(1604)から同10年にかけて提出された。
慶長期の国絵図、郷帳はその後の江戸城火災などで焼失したと思われ、正本は現存しない。慶長国絵図の控え、写本等で現存しているのは11ヶ国1島分で、西日本に限られている。
注2. 正保郷帳は江戸幕府が諸大名に命じて国単位で作らせた郷帳で、村の名と村高(村の生産力)をまとめた統計書である。
注3. 明石藩は在地支配を円滑に行うことや個々の村の水利や漁業などの維持管理を共同して行うため、領内に東浦部組、西浦部組、中里組、押部組、野々上組、新田組(以上明石郡)、淡河組、小川組(以上三木郡(美嚢郡))の八組を設置した。


参考資料 : 『明石名勝古事談』 橋本海関 著 中央印刷株式会社出版部 発行 (1974)
『神戸の町名』 神戸新聞社 編 神戸新聞出版センター 発行 (1975)
『『四季の風かほる里 常本』 常本里づくり計画』 常本里づくり協議会 (2004)
『KOBE西区こんなまち 伊川谷・岩岡・押部谷・神出・玉津 櫨谷・平野、そしてニュータウン』 大海一雄 著 神戸新聞出版センター 発行 (2017)
「中部幾次郎翁銅像 大洋漁業株式会社の創業者」解説板(明石市) ほか


2025.10.26 加筆再編集