『播磨国風土記』の餝磨郡(しかまのこおり)、貽和里(いわのさと)の条に次の様な話が見える。
雄略天皇の時代(456~479 頃か?)、餝磨郡(現 姫路市の一部、飾磨郡夢前町、同郡家島町)貽和里(伊和里)に王権を構成した有力豪族である尾治連(おわりのむらじ)の祖先にあたる長日子(ながひこ)という者がいた。
この長日子は周りの者が羨むようなとても良い侍女と馬を持っており、いつも人々に自慢していた。
そんな長日子であったので、死に臨んで、私が死んだら侍女と馬を私のそばに葬って欲しいと遺言した。
そこで、家族の者達は長日子の遺言通り長日子を葬る塚を造り、傍らにもう一つ塚を築きそこに侍女を、さらにもう一つ塚を築きそこに馬を埋めた。
後に、上生石大夫(かみのおほしのまえつぎみ)が播磨の国司(くにのみこともち)となった時、この三つの墓の傍に池を築いたことから、人々はこの池を馬墓の池と呼ぶようになったという。
特筆すべきは、この時長日子の死に際し侍女がともに埋められた事は歴史上の「殉死」の初見と見られることである。
馬墓は景福寺山(姫路市景福寺前)の北麓にあったといわれ、現在の東辻井と西新在家、新在家本町にそれぞれひとつずつ池があるが、これらの池が馬墓の池なのか否かは今となっては辿る術は無い。
『播磨国風土記』 原文
貽和里、舩丘北邉有二馬墓池一。昔、大長谷天皇御世、尾治連等上祖、長日子、有二善婢与一レ馬、並合二之意一。於レ是、長日子、将レ死之時、謂其子一曰、吾死以後、皆葬准吾、即、為レ之作レ墓、第一為二長日子墓一、第二為二婢墓一、第三為二馬墓一。併有レ三。後、上生石大夫、為二國司一有之時、筑二墓邉池一、故因名為二馬墓池一。
(※ レ点、一二点、句読点を追加)
伝承地 : 兵庫県姫路市岡町付近
| 参考資料 : | 『播磨国風土記』 古典保存会 発行 (1926) |
| 『日本古代文化の探求・池』 森 浩一 著 社会思想社 発行 (1978) |
2022.10.12 『播磨国風土記』原文を追記
2023.01.11 一部再編集