よ め が ふ ち
嫁が渕


この辺りに嫁が渕があったという 昔、武庫川と青野川が合流するあたりに大きな岩が川に迫り出している場所があった。岩の上には人の足跡のような窪みがあり、その下は深い淵になっていて「嫁が渕」と呼ばれていた。

ここには二つの悲しい話が伝わっている。

その昔、井沢村(現在の三田市上井沢、下井沢)に仲の良い若い夫婦が暮らしていた。しかし、夫婦の仲が良ければ良いほどに、姑にしてみれば息子をお嫁さんに取られたような気分になり、毎日何かにつけお嫁さんに辛く当たっていた。それでもお嫁さんは主人の母親と思えばこそ嫌な顔一つせず姑の言うことを聞いていた。
ある日の事、舅と主人が急な用事が出来て町に出掛けることとなった。姑は二人が出掛けたのをいいことに、武庫川と青野川の合流する所にある大きな田をお嫁さん一人に植えてくるようにいいつけた。
お嫁さんは言われるままに田植えに出掛けた。ところがこの田は村でも一番と言われるほどの広い田、朝から一度も休むことなく苗を植え続けるが、広い田は植えても植えても終わりそうにない。
どれほどの時間が経っただろう。日は傾き、辺りは薄暗くなり始めている。振り返って田を眺めるとまだ半分も植え終わってない。
「田植えを終えずに家に帰ったらまた姑に何を言われるかわからない…」
いつの間にか辺りはすっかり暗くなり、蛙の鳴き声と梅雨で水かさの増した川のごうごうという音だけが響いている。
日頃の姑の仕打ちを思い出しては居た堪れない気持ちでいっぱいになったお嫁さんは川の畔に迫り出した大きな岩の上に立つと、目を閉じ静かに手を合わせ眼下の深い淵へと身を投げた。
ごうごうと流れる川はあっというまにお嫁さんを呑み込んでいった。

その日の夜遅く、舅と主人が家に帰ってくるとお嫁さんがいない。「田植えから帰って来ていたとばかり思っていたけど」と姑はとぼけるばかり。
息子は急いで田にお嫁さんを探しに行くが、半分ほど苗が植えられた田があるばかりで、お嫁さんの姿は見当たらない。
夜が明け始めたころ、村の人達も手分けしていなくなったお嫁さんを探してくれた。そうこうしていると、川に迫り出した大きな岩の上に足跡が残っているのが見つかった。
村人達はお嫁さんが自ら命を絶たことを知り、大岩の上に小さな祠を建てて弔った。
以来、誰言うとなくこの淵を「嫁が渕」と呼ぶようになった。

嫁が渕にはもうひとつ悲しい話が伝わっている。

室町時代、加東郡三草山城(兵庫県加東市上三草)が落城した(注1.)。この時、一人の武士が娘を連れて丹波に落ち延びて来た。主家を失い満身創痍のまま当てのない旅を続ける日々、心労がたたったのだろう持病の発作が起きて身動きすることも儘ならず、武士は道端に身を横たえていた。
そこへ山岡という若い浪人が通りかかり、往生している武士を気の毒に思い介抱した。しかし、武士が持っている鎧や槍に目がくらみ、あろうことか武士を殺して鎧や槍を奪って逃げ去ってしまった。
哀れに思った村の者たちは武士を懇ろに弔い、一人遺された娘はある農家に引き取られ、そこで大切に育てられた。
どれくらいの月日が流れただろう、大切に育てられた娘は明るさを取り戻すまでになった。しかし、目の前で父を殺されたあの日のことは忘れることが出来ない。
ある日、娘は暇乞いをし父の仇を探す旅に出た。
嫁ヶ淵橋 娘は父の仇を探して丹波中を探し歩いたが何の手掛かりも得られぬままだった。
やがて三田まで来た娘は、内神(三田市下内神・中内神・上内神)の又兵衛という者の家で季節働きとして働く事となった。
ある日のこと、又兵衛の家の床の間に亡き父の槍が飾られているのを娘が見つける。
この槍をどうやって手に入れたのかと又兵衛に聞いたところ、士官の口を探していた山岡という浪人の世話をしていた貰ったのだという。
当時、西野上城(注2.)の城主干貝伊勢守が赤松氏との合戦に備え兵を集めていることを聞いた山岡は干貝伊勢守に仕官していた。山岡は東野上城(注3.)の城主赤松藤兵衛吉広との戦いで数名を討ち取り功名を上げた。
山岡の武勇を知った又兵衛は、山岡の功名は仕官までの世話をしてきた我が家の名誉でもあると、山岡の持っていた槍を譲り受けて床の間に飾っていたのだ。
又兵衛の話を聞いた娘は、この家で待っていれば父の仇山岡に会うことが出来る、遂に父の仇を討つことが出来ると又兵衛の家で働きながらその時を待っていた。
一生懸命に働く娘を気に入った又兵衛から、我が子の嫁になるよう勧められ、娘は又兵衛の息子と夫婦となった。
そんなある日の事、干貝伊勢守の拠る西野上城が赤松吉広に攻められ落城。城主干貝伊勢守は討死。この合戦で主君の後を追って山岡も自害した。
その報せを受けた又兵衛は山岡の死を我が子が亡くなったように悲しみ、亡骸を引き取り、盛大な法要を営み山岡を懇ろに弔った。
父の仇を討つためだけに又兵衛の家に嫁ぎ機会を窺っていた娘にとって、仇討ちを果たせぬまま山岡に死なれ、あまつさえ山岡の位牌に手を合わせなければいけない苦しみに心引き裂かれた娘は、もはや生きていて何の意味が有ろうかと嫁が渕へと身を投げて自らの命を絶った。

弘治元年(1555)摂津有岡城(伊丹城)の荒木村重が西野上城に攻め寄せたが、城主干貝伊勢守がこれを退けたことが記録に残っていることから、室町時代末期から安土桃山時代初頭の出来事であったと思われる。

かつては川に迫り出した大岩の上に足跡のような窪みがあり、お嫁さんを弔う小さな祠があったというが、河川改修工事により周囲の様子は一変。県道141号線の「嫁ヶ渕交差点」と武庫川に架かる「嫁ヶ淵橋」にその名残を留めるのみである。(写真中央辺りに小祠があったという)

嫁が渕 : 兵庫県三田市下井沢


注1. 三草山城の戦い : 延元3年(1338)4月、北朝に与した赤松一族と南朝勢の丹生寺・香下寺の宗徒らとの戦いがあった(「福田荘三草山の戦い」)。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱では、赤松満政や則尚が三草山で山名持豊と戦い敗れている。
注2. 西野上城 : 三田市西野上? 四ツ塚城、干貝城ともいう。所在についは不明な部分が多く、中西山城(三田市けやき台3丁目)の事ではないかと言われている。
注3. 東野上城 : 三田市東野上。 城ヶ岡城、岡山城、北山城ともいう。


参考資料 : 三田の民話編集委員会編. 三田の民話(上). 三田市教育委員会, 1990
(出典)三田市教育委員会「みんわまっぷ」平成7年. "三田の民話 嫁が渕ものがたり". 三田市ホームページ. 2022-03-31, https://www.city.sanda.lg.jp/soshiki/15/gyomu/rekishi_bunkazai/minwa/3425.html, (参照 2025-07-15).