ざ ん ね ん の ひ
残念の碑


土岐一郎秋譽塚 お彼岸の終わり頃、「残念の碑」を訪ねて舞子墓園を訪ねた。
いつもは静かなここも、お彼岸ということで手に手に花やお供えをもったお墓参りの人が多く見かけられた。
参道を進んで行くと、永福寺墓地の入口に面した所に「ここに残念の碑あり」と刻まれた小さな自然石の碑がある。
比較的新しい感じのするこの碑。ここを訪れた人ならこの碑の存在は知っている人も多いだろうが、この奥にある「残念の碑」はあまり知られていない。

私の知る限りでは、この石碑について書かれた唯一の資料が『西攝大観』に記されている「志士の墓」という記述である。
それによると、この碑はそもそも和田岬(神戸市兵庫区)にあった和楽園(注1.)の老松の下に建っていたらしい。
大きな碑の表には「土岐一郎秋譽塚」と刻まれている。
土岐一郎秋譽は本名を太田彦郎(おおた ひこお)といい、弘化2年(1845)10月10日、小豆島に生まれる。名は秋豊。他に仙助、彦太郎、千里という通り名もあった。
各地の運動家と親交を持ち、土岐一郎を名のり倉敷県に務めた。明治2年(1869)2月24日、兵庫で美作津山藩士数名と酒を飲んだ時に攘夷に対する津山藩の考え方を批判したため、帰途和田岬で殺害された。享年25歳。
ある日、土岐の母親が小豆島よりこの碑を運び来て、一夜のうちにこれを建てたと伝えられる。
「こゝに残念の碑あり」と刻まれた碑 『西攝大観』は、兵庫開港の頃、折しも攘夷論で混沌としていた時代に何らかの事件に関わり切腹した志士の墓標ではないかと述べている。
左側面(『西攝大観』には裏とある)に和歌が一首刻まれている。
『敷島能倭益良雄佩太刀波醜乃夷遠伐拂布良武』(しきしまの やまとますらお はくたちは しこのえびすを うちはらふらむ)

この「残念の碑」という呼び方は幕末より明治初期にかけて大流行した「残念さん信仰」によるものと思われる。
残念さんとは奈良吉野にある天誅組の吉村寅太郎の墓(注2.)、兵庫尼崎にある長州藩士山本文之助鑑光の墓(注3.)、神戸湊川にあった楠木正成の小祠(後にこの残念さん信仰は明治の湊川神社の創建により消える)、 広島廿日市にある残念社(宮津藩士依田伴蔵の祠)(注4.)など、無念の最後を遂げた人々の墓をこう呼び、一願成就の霊験あらたかとされ、多くの人々の参詣を集めた。
森鴎外の小説『堺物語』にも、明治元年(1868)にフランスの要求により切腹させられた土佐藩士の墓(注5.)を「御残念様」と呼んで、堺に参詣する人が後を断たなかったと書かれている。
余談ではあるが、奇しくも神戸事件の責を問われた滝善三郎正信が切腹したのも永福寺(昭和20年戦災により焼失)という名の寺院であった。

残念の碑 : 兵庫県神戸市垂水区舞子陵 舞子墓園 永福寺墓地内

注1. 和楽園 : 神戸市兵庫区の和田岬にあった私設遊園地。明治23年(1890)5月3日に開業式が行われ、同年5月4日より開園営業。
明治28年(1895)、第4回内国勧業博覧会が京都で開かれたとき、神戸市もこれに協力し、博覧会附属施設として和楽園に「和田岬水族放養場」を開設。同30年(1897)、第2回大日本水産博覧会が神戸で開催された時、神戸市はさきの「和田岬水族放養場」を充実させ、本格的な水族館「和田岬水族館」を開設。日本最初の水族館と言われている。
注2. 吉村寅太郎の墓 : 奈良県吉野郡東吉野村鷲家
注3. 山本文之助鑑光の墓 : 兵庫県尼崎市杭瀬南新町4丁目9-13 杭瀬東墓地内
注4. 残念社 : 広島県廿日市市大野八坂1679-15
注5. 土佐十一烈士墓 : 大阪府堺市堺区宿屋(しゅくや)町東3丁53-2 宝珠院境内


参考資料:『西摂大観』 仲彦三郎 編 明輝社 発行 (1911) ほか