
小野市内を走る国道175号線の浄谷町北交差点と県道18号線の敷地町交差点を結ぶ道路の北側に、推定90坪弱ほどは有ろうかと思われる籬垣(ませがき)に囲まれた雑木林があり、その中に直径8m、高さ60cmほどの塚がある。
中には梵字と共に「蚖蛇及蝮蠍気毒煙火燃念彼観音力尋声自回去」
(注1.)と墨書された木柱が立っており、籬垣の手前には小野市の建てた「ハメ塚」の石碑がある。地元では「晴休さん」(せいきゅうさん)と呼ばれているという。
中島村(加東郡中島村、現 小野市中島町周辺)は、二つの川に挟まれた土地にあることから川の中の島ということで、中島村という名前が付いたという。
永応8年 (1401) 夏、この地方に大雨が降り、川の氾濫により家も田も水浸しとなった。この大水で土砂が流され数千匹というハメ(播磨地方の方言で「マムシ」のことを「ハメ」と呼ぶ)が村に流れ着き、家や田に入り込み、水が引いた後もそのまま棲み付いてしまった。
家や田や村の至る所にハメがいるため、これに噛まれて命を落とす村人が後を絶たず、村人は村を棄て隣村の黒川村(現 小野市黒革町)に移り住みはじめた。やがて、住む人も僅かとなり、耕す人がいなくなった田畑は荒れ放題となり、村はすっかり荒れ果ててしまった。
ある日の事、旅の途次ここを通り掛かった井上源亮(源助)が荒れ果てた村の様子を見て大変驚いた。近くの村の人からこれまでの経緯を聞いた源亮は中島村の人々を気の毒に思い、何か力になれはしない物かと浄土寺に参拝し、七日七晩、中島村の人々が元の穏やかな暮らしが出来るようにと祈願し続けた。
すると、源亮の前に一人の老僧が現れ、大和国(奈良県)に住む安倍晴休(あべのせいきゅう)という者を訪ねて、晴休にハメ退治をしてもらうように頼むがよいと告げて姿を消した。
早速源亮がそのことを村人に伝えると、大和国に使いの者を出し、晴休を伴って村に帰って来た。この晴休こそ、稀代の陰陽師、安倍晴明の子孫と言われている。
村に着いた晴休は村を見渡せる小高い丘に登り、村の東の角に神を祀り、西南に毘沙門天を祀れ。そして、西北の地に塚(墓)を作り、ここにハメを葬れ。と告げた。
晴休はこの地でハメ封じの加持祈祷を行い、西北の地に経塚(経典を土中に埋納した塚)を築き村中のハメを封じた。これが今に伝わるハメ塚という。
翌年から中島村には一匹のハメもいなくなり、喜んだ人々は故郷である村に戻り、荒れていた村も再び賑わいを取り戻した。村人は村の恩人である源亮に感謝し、毎年8月6日には供養の祭礼を行っていた。
江戸時代の慶長年間(1596~1615)頃、姫路藩の代官が当地を訪れ、ハメ塚の周囲に三重の堀を作り手厚く祀ったという。
安倍晴休なる人物については、「安倍氏系図」等様々な資料に目を通したが、残念ながらその名前を見出すことは出来なかった。
現代のように医療が発達していなかった時代、農作や山仕事を生業としていた当時の人たちにとってマムシの存在は悩みの種であったと思われ、ここ以外にも、同市敷地町に「ハメ塚」、下来住(しもきし)町の常楽寺に「蝮塚」(はめづか)、隣接する加西市南網引(みなみあびき)町に「蝮蛇塚石棺仏」(はめづかせっかんぶつ)などが祀られている。
ハメ塚 : 兵庫県小野市中島町330
注1. 蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去(がんじゃぎゅうふっかつ けどくえんかねん ねんぴかんのんりき じんじょうじえこ)
観音経の一節。「蚖蛇及び蝮蠍、気毒煙火のごとく燃ゆるも、彼の観音の力を念ずれば、声に尋いで自ずから回り去らん。」(読み下し)
蚖はトカゲ、蛇はヘビ、蝮はマムシ、蠍はサソリのこと。猛毒を持ったトカゲやヘビ、マムシ、サソリなどが烈火の如く怒って立ち向かってきた時、「南無観世音菩薩」と念じ観音様のお力にすがれば、その声を聞いた猛毒のそれらは向きを変えて立ち去って行くという意味。
| 参考資料 : | 加東郡教育会編. 加東郡誌. 加東郡教育会. 1923 |
| 加東郡教育会編. 加東郡誌(復刻本) 臨川書店. 1973 |
| 小野の歴史を知る会. ふるさと伝え語り. 小野市文化連盟. 1998 |
| 現地解説板(小野市) |
2024.11.20 ジオシティーズ掲載分を加筆再編集して新規掲載