せ い め い づ か
晴 明 塚

(尾張国蟹江郷)


蟹江町の晴明塚 尾張国は、京都、常陸国に次いで安倍晴明の伝承が色濃く残る土地で、晴明神社をはじめとして各地に晴明の伝承が残されている。

民家と民家の間を縫うように走る細い道を入った住宅街の一角、一本の木を中心に柵に囲まれた小さな草地があり、石柱と共に蟹江町教育委員会の立てた「晴明塚」の解説板が立っている。
古より蟹江は安倍晴明ゆかりの地とされており、天保12年(1841)の『蟹江町新町村絵図』にも晴明塚が描かれている。

『改訂増補蟹江史譚』によると、晴明塚は浮島山地蔵寺(真言宗智山派)の山門を入った西にあり、面積1畝(約99平方㎡)、高さ9尺(約2.7m)。晴明は名高い山伏で、塚の中には晴明が持っていたという法螺貝や剣などが納められていると伝えられているとあり、これによると、晴明は(秘術を行う?)山伏と記されている。
地元に伝わる話によると、晴明塚が作られたのは天正年間(1573-1592)のことで、晴明が火伏せ(神仏の霊力、呪術などで火災を防ぐこと)の祈祷を行ったとされ、その時に用いた剣(刀とも言われる)や法螺貝、或いは馬を埋めた場所と伝えられている。
そのお蔭で今もこの地域には大きな火事が無いという。
一説には、この塚は蟹江城合戦(注1.)の戦死者の遺骨を葬った塚とも伝えられる。この塚が天正年間に作られたもので、刀や馬が埋められているとすれば、或いは蟹江合戦の戦死者を葬った塚という可能性があると思われる。
塚の南西には天和2年(1682)以前の創建と伝えられる日吉神社(祭神 大山咋命、平成6年に現在地に移転)があり、晴明が五行の象徴として用いたことで知られる五芒星を社紋としている。塚は当社の鬼門に位置しており、日吉神社の鬼門除けとして祀られたのではないかという説もある。

安倍晴明が生まれたのが延喜21年(921)で、寛弘2年(1005)に85歳で没したと言われており、晴明が生きた時代は平安時代。前述の話で晴明塚が作られたとされるのが戦国時代の天文年間(1573-1592)で、その間に600年~700年近い隔たりがある。そのため、晴明塚が作られた(火伏の祈祷が行なわれた)時期が天正年間であるとするなら、当地を訪れたのは晴明の流れを汲む(教えを受け継いだ)弟子ではなかったのだろうかという話もある。
しかし、寛和元年(985)に隣接するあま市の甚目寺(甚目寺町)に晴明が訪れたという記録があり(注2.)、蟹江にもこの頃に訪れたのではないかとも言われている。

大正14年(1925)頃の晴明塚の周囲はイチジク畑で、周囲に溝(堀?)を巡らした小高い丘の上に塚があり、地蔵寺から塚まで道が付いていた。周囲に溝がある小高い丘ということから、古墳であったのではないかと思われる。
現在、塚には小さな祠と晴明塚と刻まれた石柱があり、石柱は昭和30年頃に地元の方たちが建てたもので、祠も近世になって祀られたものという。
この塚に生えている木を切ったりすると交通事故に遭うなどの祟りがあるという。

晴明塚 : 愛知県海部郡蟹江町蟹江新町字上之割27-8

注1. 蟹江城合戦とは、天正12年(1584)6月に起こった尾張国南西部における羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。主に蟹江城における籠城戦。蟹江合戦ともいう。
参考:「蟹江合戦とは?」(蟹江町ホームページ 蟹江町「おうちミュージアム」)
注2. 詳細不明、要出典。


参考資料 : 現地解説板(蟹江町教育委員会)
『安倍晴明読本』 豊嶋泰國 著 原書房 発行(1999)
『特別展 陰陽師 安倍晴明 図録』 安城市歴史博物館 編 安城市歴史博物館 発行(2017)
『平成30年第2回蟹江町議会定例会会議録』 愛知県蟹江町


  2024.03.28 ジオシティーズ掲載分を加筆再編集して新規掲載