都市伝説 た行
● タコの中から髪の毛
タコを調理した時、まれにタコの中から人間の髪の毛が出て来ることがある。海底に沈んだ遺体をタコが食べた時、髪の毛が消化されずに体内に残っているからだという。
タコの体内から短い髪の毛のような物が出て来ることあるのは事実である。しかし、これは人間の髪の毛などではなく、ゴカイなどの仲間である環形動物、多毛綱ウロコムシ科のウロコムシ(鱗虫)の毛である。
海底に沈んだ遺体をタコが食べた可能性は否定できないが、それほど頻繁にある訳でもなければ、タコの体内から出て来る髪の毛のようなものは往々にして先に書いたようにウロコムシの毛である。
タコが水死体を食べるという話は古くからあったようで、次のような話(都市伝説)がある。また、タコに限らず、有名な所ではシャコ、ほかにもエビ、カニ、アナゴ、ウナギ、キビナゴ、シシャモなどの同様の都市伝説もある。
・昭和29年(1954)9月26日、函館から青森へ向かう青函連絡船洞爺丸が台風15号(洞爺丸台風)が沈没。死者・行方不明者あわせて1155人という日本海難史上最悪の事故となった。
事故現場の近くにはタコの漁場があった。洞爺丸の事故からしばらく経ったある日のこと。いつもよりタコが多く採れた。そこでその場で食べようということになり、漁師がその場でタコを捌いた。すると、切ったタコの中から大量の人間の髪の毛が出てきた。何が起こったのか分からないまま漁師は、他のタコも捌いてみた。すると、ほとんどのタコの中から同じように人間の髪の毛が出てきた。洞爺丸が沈没した現場の近くということに気付いた漁師はすべてのタコを廃棄したという。
・奥尻島の住民は地震(津波?)発生直後は決してタコを食べない。それは洞爺丸の事故で水死体をタコが食べていたという話を聞いたからだという。
● 玉ねぎ頭の中
独特の髪形“玉ねぎ頭”で知られる黒柳徹子の髪の中には巨大な水晶玉が入っている。
『世界 ふしぎ発見!』での正解率が高いのはそれで占ってるためという。また、「徹子の部屋」などで見られる軽妙なおしゃべりのこの水晶玉の力という。
● 使われなかった鋼材
ある製鋼所で一人の作業員が行方不明になった。その作業員は溶鉱炉で作業をしていたが、駐車場に車が停まったままなので無断で帰宅したとも思えない。
総出で工場内を探したが結局見つからなかった。
その日製造された鋼材は工場の敷地内に置かれ、出荷されることはなかった。
(会社の後輩から聞いた話)
備考:
今もそうなのかは分からないが、成分調整のため添加する金属を作業員が投げ込むことは実際にあるらしく、昭和40年代後半頃までは作業に当たっていた人が誤って転落する事故が多く発生していたという。
事故が発生した時に造られた鋼材は工場敷地内に埋め立て等によって処分されるという。
● テトリス
日本でも一世を風靡したゲーム「テトリス」は、米ソ冷戦時代にソ連(現 ロシア)がアメリカを中心とした資本主義国家(西側諸国)の生産性を落とすために使用した一種の兵器であったという話がある。
1984年、ロシアの科学者アレクセイ・パジトノフが教育用ソフトウェアとして「テトリス」を開発。
当初、テトリスは教育用ソフトウェアとして供用されたが、テトリスに熱中するあまり肝心の勉強が疎かになる生徒が続出、この状況を危惧した学校はテトリスを学校から撤去すると共に禁止した。
ところが、このテトリスの中毒性に目を付けたのがアメリカと冷戦中のソ連だった。
ソ連は、アメリカを中心とした資本主義国家(西側諸国)の生産性を落とすためにゲームとしてライセンスを与え世界中に販売した。
果たしてソ連の目論見は的中、世界中がテトリスに熱中し、失われた生産性の損失は全世界で150兆円とも言われている。
備考:
アレクセイ・レオニードヴィチ・パジトノフ(Алексей Леонидович Пажитнов、1955年4月16日~)はロシアのコンピューター技術者。
1984年、ソビエト連邦のR&Dセンターであるソビエト社会主義共和国連邦科学アカデミーのコンピュータ部門で働いていた時、ドミトリー・パバロフスキーとバジム・ジェラシモフの助けを借りてコンピューター・ゲーム「テトリス」を制作した。
● 東京タワーの手形
東京タワーの一番てっぺんにはタワー建設に携わった工事現場の棟梁?現場監督?の手形が記念に付けられている。
備考:
手形ではないが、2012年7月に行われた東日本大震災で曲がってしまった支柱の付け替え工事の際、直径約37センチ、長さ約25メートルの筒状の支柱をガスバーナーで輪切りにしたところ、穴が開いて黒ずんだボールが支柱底部から発見されるという事があった。
付け替え工事は開業以来初めてのことで、支柱は密閉されていたことからタワー建設時に何らかの理由で入り、50年以上そのままだったと考えられている。
タワー建設中の一時期、近くの増上寺の空き地に資材が置かれていたことから、日本電波塔は作業員や子どもがキャッチボールをしていて偶然支柱にボールが入った、作業員が冗談半分や記念のつもりで支柱にボールを入れたのどちらかではないかと推測している。
参考:東京タワー「頂上」に軟球、いまだ謎のまま 2012年8月4日 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG04027_U2A800C1CC1000/
● 「豆腐」と「納豆」
「豆腐」は豆が腐ると書き、「納豆」は納める(納まる)豆と書く。
元々は大豆を「腐らせて」(発酵させて)作った(今日「納豆」と呼ばれている)食べ物を「豆腐」、大豆の豆乳を四角い型に「納めて」固めて作った(今日「豆腐」と呼ばれている)食べ物を「納豆」と呼んでいた。
現在のように名前が入れ替わってしまったのには、次の様なふたつの話がある。
ひとつは平安時代に間違って使われたことが切っ掛けという話。
その昔、豆腐と納豆が中国から日本に伝えられた。豆を腐らせたもの(現在の納豆)を「豆腐」、豆乳を型に収めて固めたもの(現在の豆腐)を「納豆」と呼んでいたが、平安時代に豆腐と納豆の名前が間違って使われるようになり、それがそのまま今に伝わっているのだという。
もうひとつは、荷札が入れ替わってしまったという話。
その昔、豆腐と納豆が中国から日本に伝えられた時のこと、船に積んでいた「豆腐」と「納豆」の荷札が強風で剥がれてしまった。この時、荷札が間違えて貼り直されたために名前が入れ替わったまま日本に伝わって来たという。
また、もともと中国では「豆腐」(現在の豆腐)を作る時、大豆を腐らせて作っていたという話もある(実際にはそんなことはない)。
備考:
豆腐は中国より伝わったものだが、納豆は日本発祥のものであり、両者の名前が入れ替わったり取り違えられることは無い。
「豆腐」は中国でも「豆腐」と書く。
豆腐がいつ頃から作られるようになったのか詳らかではないが、前漢の時代、劉安(紀元前179年~122年)が発明したといわれている。
朱子の豆腐詩に淮南王(わいなんおう、中国における諸侯王の王号。ここでは劉安のことを指す。)が豆腐を作ったことを謳っており、宋代に既にこの説話が存在していたことが分かる。明の李時珍が著した『本草綱目』にも豆腐を劉安の発明としている。
日本に豆腐が伝わった時期は奈良時代とも鎌倉時代とも言われ、中国から伝来したものではなく空海が発明したという話もある。
中国では「腐」は「くさる」という意味ではなく、「柔らかいブヨブヨしたもの」を意味し、「豆腐」は「豆で出来た柔らかいもの」といったような意味である。
「腐」の字の冠である「府」には「くら」という意味もあり、元々は「府」ではなく「庫」という字の下に「肉」と書いていた。「腐」という字は捕らえた獣の肉を庫に入れて保存している状態を表わした字で、死後硬直で固くなっている肉が庫の中で(死後硬直が解け)食べられるくらい柔らかくなってゆくことから、後に肉に限らず、柔らかいブヨブヨしたものを意味する文字となった。
納豆は精進料理として主に禅寺の納所(なっしょ、寺院の倉庫)で作られた食品で、これが名前の由来という説が江戸時代に著された『本朝食鑑』に載っている。しかし、平安時代中期に著された『新猿楽記』の中に「精進物、春、塩辛納豆」とあり、これが「納豆」の初見とされ、禅宗の伝来以前より「納豆」の名前があることから『本朝食鑑』も禅寺の納所で作られたことに由来するとは記しているが、その説には疑問があるとしている。
納所を起源とする説は、納所で作った豆なので「納所豆」と呼ばれていたものが、後に「納豆」になったと説いている。
その他にも、納所で作られた豆が桶や壷などに入れて貯蔵されていたことから「納めた豆」から「納豆」となったという説、煮た大豆を冷まして稲藁を束ねた「苞」(つと)とよばれる包みの中に入れて作られたことから、藁苞(わらづと)に「納めた豆」なので「納豆」と呼ばれるようになったという説、さらには、北国のある村で神棚に供えた煮豆にたまたましめ縄の端が触れたことから稲藁についていた納豆菌が繁殖して糸引き豆が出来た。この美味しい食べ物を授けて下さった神様に感謝し、神様に「お納めした豆」ということからこの食べ物を「納豆」と名付けたという話などもある。