な み だ か ん の ん
涙 観 音


涙観音 昭和55年(1980)1月、奇跡は起こった…
兵庫県揖保郡(現 たつの市)御津町にある稲富山円融寺境内に祀られている石造りの慈母観音の両目から涙が流れ出し。
この石造慈母観音像は昭和30年(1955)、当時の住職が網元(注1.)の供養のために建立したもので、高さ約1.5m。
昭和55年(1980)1月、工事のために台座から降ろされ、台座に戻された時から突然涙を流し始めたといわれる。
同年2月16日には涙を止めるための大法要祭も執り行われたが、それでも涙は止まる事が無かった。

ある調査によると、右眼より左眼の方が流れる涙の量が多く、多い時には一日でバケツ約1杯程度にもなるという。
地元ではこの不思議な現象を天変地異の予兆ではないかと言う人もあれば、観音様が今のこの世の中を嘆いておられるのだと言う人もいるという。
今尚涙を流し続ける観音像、しかし何故石造りの観音像が涙を流すのかは謎のままである。

円融寺は真言宗御室派の寺院で、播磨西国三十三箇所8番札所。
天平11年(739)、聖武天皇の勅願で行基が開創したと伝え、戦国時代に兵火に遭い焼失。慶長年間(1596~1615)に再建され、徳川幕府より朱印状を授かっている。

円融寺にはもう一つ不思議な話がある。
寺の土塀に、馬に乗った武将と不動明王、その足元に犬の姿が浮かび上がっている。
当寺は梶山城(たつの市揖保川町市場)主肥塚(こえづか)祐忠終焉の地で、住職によるとこの武将はここで自害した肥塚祐忠ではないかと言われている。
弘治2年(1556)10月8日、梶山城主肥塚祐忠が室山城主浦上政宗の招きにより室津を訪れている隙に、楯岩城(揖保郡太子町上太田)の広岡五郎が梶山城を急襲。祐忠の弟、祐政が留守を守っていたが、祐政は討死、祐忠の妻、白菊は3人の子を城外に落ち延びさせ、城に火を放ち自害した。
急襲されたことを知った祐忠は急ぎ城に戻ろうとしたが、その途上広岡勢に攻められ当寺に入って自害した。


円融寺 : 兵庫県たつの市御津町岩見807 

注1. 網元 : 漁網や漁船を所有し漁業を営む人。網主。

2022.10.19 一部追記