丹波篠山市上宿の辻川橋バス停のそばに、源頼光の大江山鬼退治伝説にまつわる「六本柳」がある(現在は大正4年(1915)に補植さえた一本のみが残る)。そこから約100mほど東、上宿公民館の西の端に鮮やかな赤色の奉納幕を纏った小さな祠が鎮座している。側には同じく鮮やかな赤色の幟が立ち、「奉納 南無血寄地蔵願王大菩薩 上宿」の文字が染め抜かれている。この地蔵尊は篠山藩4代藩主形原松平康信の甥、松平又四郎を弔うため建立された。 江戸時代前期、当時の篠山藩藩主であった松平康信の許に弟信昌の子(康信の甥)、松平又四郎という物が身を寄せていた。(康信は形原松平家6代当主松平家信の長男、信昌は家信の五男) 藩主康信は、七十歳まで藩主として藩の財政に力を入れ、倉本池の築造、寺社の再建修復、丹波茶や立杭焼の振興にも力を入れ、隠居後も杉地域(丹波篠山市杉)の干拓など数々の事業を成したことで知られている。 しかし、預かっている甥の又四郎はといえば、松平家の威光を笠に放蕩無頼の生活を続け、領民はもとより家中の者からも恐れられ嫌われていた。周囲の者の再三の忠告にも耳を貸すことはなく、又四郎の不行状は改まることはなかった。
目に余る又四郎の無法に、康信は苦渋の決断を下す。 寛延元年(1748)8月、松平家が丹波亀山藩に移封となり、翌年、菩提寺であった光忠寺も「亀山城下雷門外」(京都府亀岡市北古世町)に遷された。光忠寺墓地には血寄地蔵の分身の小さな地蔵尊が北向きに祀られているという。
不行状とはいえ若くしてその命を絶たれた又四郎を悼み、死後その豪勇闊達さと溢れるような生気を称え稲荷神として習合し、除災と繁栄を祈念し篠山城の鬼門に祀られた。これが黒岡川沿いに立つ「頼尊又四郎稲荷神社」(よりたかまたしろういなりじんじゃ、同市東新町)である。
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