ち よ せ じ ぞ う
血 寄 地 蔵


血寄地蔵 丹波篠山市上宿の辻川橋バス停のそばに、源頼光の大江山鬼退治伝説にまつわる「六本柳」がある(現在は大正4年(1915)に補植さえた一本のみが残る)。そこから約100mほど東、上宿公民館の西の端に鮮やかな赤色の奉納幕を纏った小さな祠が鎮座している。側には同じく鮮やかな赤色の幟が立ち、「奉納 南無血寄地蔵願王大菩薩 上宿」の文字が染め抜かれている。
この地蔵尊は篠山藩4代藩主形原松平康信の甥、松平又四郎を弔うため建立された。
江戸時代前期、当時の篠山藩藩主であった松平康信の許に弟信昌の子(康信の甥)、松平又四郎という物が身を寄せていた。(康信は形原松平家6代当主松平家信の長男、信昌は家信の五男)
藩主康信は、七十歳まで藩主として藩の財政に力を入れ、倉本池の築造、寺社の再建修復、丹波茶や立杭焼の振興にも力を入れ、隠居後も杉地域(丹波篠山市杉)の干拓など数々の事業を成したことで知られている。
しかし、預かっている甥の又四郎はといえば、松平家の威光を笠に放蕩無頼の生活を続け、領民はもとより家中の者からも恐れられ嫌われていた。周囲の者の再三の忠告にも耳を貸すことはなく、又四郎の不行状は改まることはなかった。

目に余る又四郎の無法に、康信は苦渋の決断を下す。
万治2年(1659)10月のある日、康信より波々伯部神社(ほうかべじんじゃ、ほほかべじんじゃ、同市波々伯部)へ代参を命じられた又四郎は、今の上宿公民館が有る付近で康信の遣わした家臣(刺客)によって暗殺された。
又四郎の亡骸は阿弥陀寺(同市篠山町八上上)に手厚く葬られた。領民と家を守るためとはいえ、伯父に殺された又四郎を哀れに思った村人たちは、又四郎が討たれた場所を掃き清め、小さな祠を立て供養した。
安政5年(1858)10月、二百回忌を迎えるにあたり村人達が亀山藩に移封になっていた形原松平家に許しを得て地蔵尊を建立。これが今に伝わる「血寄地蔵」である。 

寛延元年(1748)8月、松平家が丹波亀山藩に移封となり、翌年、菩提寺であった光忠寺も「亀山城下雷門外」(京都府亀岡市北古世町)に遷された。光忠寺墓地には血寄地蔵の分身の小さな地蔵尊が北向きに祀られているという。

不行状とはいえ若くしてその命を絶たれた又四郎を悼み、死後その豪勇闊達さと溢れるような生気を称え稲荷神として習合し、除災と繁栄を祈念し篠山城の鬼門に祀られた。これが黒岡川沿いに立つ「頼尊又四郎稲荷神社」(よりたかまたしろういなりじんじゃ、同市東新町)である。
当地方に残る伝説(昔話)「負け嫌い稲荷」では、文政3年(1820)の江戸両国の回向院広場で行われた春場所、将軍上覧大相撲で、いつも負けてばかりの篠山藩主青山忠裕のお抱え力士に代わって、篠山の稲荷神の化身、王地山平左衛門ら一行8人の力士と頭取、行司が参戦。勝ちを重ね、青山忠裕を大いに喜ばせたという話がある。
この稲荷神が化けた力士の一人として、稲荷神と習合した松平又四郎が「頼尊又四郎」として登場している。

血寄地蔵 : 兵庫県丹波篠山市上宿
阿弥陀寺 : 兵庫県丹波篠山市篠山町八上上
頼尊又四郎稲荷神社 : 兵庫県丹波篠山市東新町
光忠寺 : 京都府亀岡市北古世町2丁目


参考資料 : 梶村文弥. 丹波篠山五十三次ガイド ふるさとの探訪(改訂版). 篠山観光協会, 1995
”たんばささやま五十三次 60.松平又四郎と血寄地蔵”. 丹波篠山市. https://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/bunkazai_hubutu_huzoku/tabasasayamakankoupoint/tanbasasayamagojusantugi/13962.html, (参照 2025-02-24).
現地解説板(篠山市(現 丹波篠山市)・上宿自治会) ほか